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1205. 恐竜/アメリカ自然史博物館 (NYC百景)


恐竜CIMG0244 (2) 
(アメリカ自然史博物館、Tyrannosaurus rex)


目を覚ますと、恐竜はまだそこにいた。 ( アウグスト・モンテロッソ 『恐竜』、1959)


小説のなかの「恐竜」、
名作が幾つもある。
上に、全文を引用したモンテロッソの短篇もそのひとつ。
わたしが初めて暗唱した小説でもある。


さらば、愛しき鉤爪

そして、なによりも、エリック・ガルシアの「さらば、愛しき鉤爪」(1999)、
このとびきりの探偵小説をわたしは愛する。

おれの名前はヴィンセント・ルビオ。ロサンジェルスが根城のケチな私立探偵だ。つまらない仕事のかたわら、謎の死を遂げた相棒アーニーの死因を探っている。そんなおれを<委員会>がけむたがっているのは承知の上だ。
ところでおれは、人間じゃない。人間の皮をかぶり、人間にまぎれて暮らしているヴェロキラプトル――恐竜だ。ああ、それにしても昔はよかった……。世界中で熱狂の渦を巻き起こしたハードボイルド恐竜ミステリー、ついに登場!(ヴィレッジブックス)


この本によれば、恐竜たちは「ハーブ」に弱い。人間がアルコールやドラッグで酔っぱらうように、恐竜は薬草のにほひに酩酊してしまうのだそうだ。あの名曲「スカボローフェア」は、ドラッグ(ハーブ)に酔った恐竜たちを歌ったものであり、さらに、ポール・サイモンの正体もなんと恐竜なのであるというのだが。



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100.ジョナサン・キャロル 炎の眠り

偏愛するキャロル、「炎の眠り」(1988)は彼の長編第四作である。
第二作の「月の骨」と主題や登場人物が共通する部分があることから、〈〈月の骨シリーズ〉〉の一作として位置付けられることもあるようだが、それが適切かどうか?
そんなことよりも、キャロルの長編はどれも独特の味わいと趣があってそれぞれの作品が比類のない傑作であると、そう書いておきたいのである。

…ふいに通りの行く手に人影がぬっと姿を現わした。自転車に乗った男とわかるまでちょっとかかった。車体が吹き流しやミラー、サドルバッグ、バンパー・ステッカー、アンテナその他あらゆる物のごた混ぜで、ぴかぴかに飾り立てられていたのだ。男はがたがたの竹馬小僧(グリム童話の一つの主人公)のような長い顎髭を生やしている。頭と耳の大部分を隠し、アラスカの木こりを思わせる例の丸い毛皮帽を被って。車体が左右に振れるほど猛烈にペダルを漕ぎながら、死、もしくは正気が真後ろに迫っているみたいに突進してくる。自転車の風を切る音と男の大きな息遣いを除けば、通りはしんとしている。ぼくは左右のどっちへ行けば避けられるか、それもわからないほど疲れていた。近づくにつれて顔立ちがはっきりする。皺や筋が何本も刻まれている。(中略)
「レドナクセラ!よく戻ってきた!」男はどなった。
(浅羽莢子訳)

 
この「自転車の男」が、最初から最後まで、物語の要所要所で現れてくる (現れてほしくなんかないのに)。現れては、不気味で奇妙な声を投げかけてくる。
その謎を解かねばならない!自転車の男を追い払わねばならない!乱暴な要約だが、これはそんな話である。


( bicycles in fiction、完)





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99.クレア・キーガン 降伏

アイルランドというと一番に「スティーヴ・キャレラ」を思い浮かべてきた我が読書人生を、少し反省気味の今日この頃である。それくらい素晴らしい小説を読み過ごしてきたという感じ。ジョイスやブロンテ姉妹やオコナーやオブライエンまで遡らずとも、アリステア・マクラウドやジョン・バンヴィルやトレヴァーやマクガハンやマコート等々、強力な書き手が揃う。そしてクレア・キーガンのような若い作家を含めて、今や書店の海外文学の棚はアイルランド系作家の作品が席捲している。
・・・というのはちょっと大袈裟かもしれないが、わたしのように遅れてきた読者の中ではそんな感じなのである。

部屋は暖かかった、そろそろチェーンも乾いているだろう。暖炉の火が、自転車のリムを、ハンドルを、スポークを照らした。巡査部長は自転車を上下逆さまに置き、片手でゆっくりペダルを回しながら、オイル缶のノズルをチェーンに当てた。オイルを差しながらチェーンが回るのを眺めていると、鎖の輪が歯車にきちっとおさまり、歯車の歯がチェーンに合うように作られていることに、彼は感心した。(中略)
今、巡査部長は、自分の自転車があることが子どものように誇らしかった。元の向きに戻し、タイヤに空気を入れると、体がほてって満ち足りた気分になった。遠乗りの体重を支えられるかどうか確かめると、自転車を机にもたせかけた。(岩本正恵 訳)


「降伏」(2007) は、大好きなクレア・キーガンの短篇集 『青い野を歩く』 の中の一篇である。・・・主人公は、とある田舎町の巡査部長。いつも自転車で町の中を走る。とりわけ大きな出来事や事件が起こるわけではない。自転車がなにか特別な主題になっているわけでもない。でもなぜか読み終わって何年も経つのに、この巡査部長が自転車で走る姿が強く記憶に残っている。そんな話しなのである。

98.R・カーヴァー 自転車と筋肉と煙草

「自転車と筋肉と煙草」(1976) は、初期の短編の一つ。邦訳は、短編集『ささやかだけれど、役にたつこと』(中央公論社)に収録されている。
なにげない日常のできごとをとらえた短い作品であるが、いつものカーヴァーの作品と同様に、奇妙な余韻と深い味わいがある。まさに『A Small Good Thing』、なのである。

「ハミルトンさん」と女は言った。「事の次第を御説明します。私たちは先月休暇旅行に出ておりました。そしてキップがそのあいだギルバートの自転車を貸してくれと言ったんです。そうすればロジャーが自分の新聞配達を手伝えるから、ということでした。ロジャーの自転車はパンクして使えなくてどうのということだったと思います。それでどうなったかと申しますと  
「ゲイリーが僕の首しめたんだよ、父さん」とロジャーが言った。
「何だって」とハミルトンは言って、息子を注意深く見た。(中略)
「それでどうなったかといいますと、キップとロジャーはそのギルバートの自転車をキップの新聞配達に使ったんです。それから二人は、ゲイリーも加わって三人で、その自転車を、この子たちの言によれば、かわりばんこに転がしたんです」
「その『転がした』というのはどういうことですか?」とハミルトンが訊いた。
(村上春樹 訳)


中途半端な引用になった。これでは「自転車」はあっても、「筋肉」も「煙草」も出てこないんだものなぁ。ともかくこの短篇は、この三つの言葉が、いわば三題噺のようなかたちで浮かび上がってくるという作品なのである。
・・・カーヴァーは小説だけではなく詩も書いた。この短篇のタイトルに並べられた三つの言葉は、とても凝縮された言葉で、この一行だけで、現代詩の世界のような深みを持つ、そんな気がするのである。




97.バーリー・ドハティ  ディア ノーバディ

「ディア ノーバディ」(1991)は、18才の少年と少女の物語。少年は、いつも自転車で少女の家まで出かける。そう、少年が少女をたずねる場合、自転車で行くべきなのである。なんて正統な青春小説なんだろう。
・・・児童文学の古典だと思っていたら、まだわずか20年前の小説でありました。

家に帰りたくはなかった。頭をぐっと下げ、車輪の音を聞きながら全速力で突っ走った。そしてメインストリートにぶつかると、荒野の方向へ向かった。路上には一台の車もなく、物音ひとつしない。やがて町明りがすべて後ろに消え、ぼくの自転車の小さなフロントライトだけが、闇と静寂のなかの道を照らすようになると、巨大な黒い口に呑みこまれていくように感じた。ぼくは立ちあがり、ペダルをさらに速くこいだ。だれと競争していたのか、だれから逃れようとしていたのかわからない。たぶん、ぼく自身だろう。ヘレンの家の前に立っていた、見下げはてた臆病者のぼく自身。
(中川千尋 訳)


再読するのが遅すぎた。
最初に10代で読み、10代で再読したい小説である。
年長さんが読むと、どうもいけない。なにかささくれだった自分の指先ばかりが気になってしかたがない。そんな気持ちになってしまうのである。



96.ジェイムズ・ジョイス 恩寵

「恩寵」(1914)は、連作短篇集『ダブリン市民』に収録の一篇である。
小品ながら、含まれているものは大きい。大きすぎて手にあまるほどである。
都市論から信仰の問題まで、情愛から諦念まで、少年から下宿屋の女将やパブに入り浸る男たちまであらゆるダブリナーズの意識や生きざまを描き出す。

そのとき、手洗いにいた二人の紳士が彼を起そうとした。だが、なんの力もなかった。彼は、その落ちた階段の下に、身を丸くしたままだった。二人は、彼を仰向けにさせた。
(中略)
「このかたひとりだったのかい?」とマネージャー。
「いいえ、おつれが二人あったようです」
「で、その人たちはどこへ行ったのかね?」
だれも知らなかった。(中略)
自転車服を着た若い男が、見物人の輪を押しわけていった。彼は、敏活に怪我した男のそばに膝をついて、水を頼んだ、巡査もまた、手をかそうと膝をついた。若い男は、怪我した男の口から血を洗い取り、それから、ブランデーを持ってくるように言った。
(安藤一郎訳)


・・・酔っ払った男が階段の下で倒れて怪我をしている。だが誰も助けようとしない。連れがいたはずなのに姿を消したのか見当たらない。見学者ばかりである。様子をうかがっているものばかりである。ようやく自転車服を着た若い男があらわれて親切に手当てをしてくれる。

だいたい、いきなり登場するこの「自転車服の男」というのがよくわからない。何の象徴なのか何かのメタファーなのか。いやその前に、この作品のタイトルの「恩寵(Grace)」という言葉がまずわからない。神から恵まれたものはなにか。あるいは「恩寵」とは反語なのか。あああ難儀な作品を読んでしまったものであるといちどため息をつくふりをしてから本を閉じた。やっぱりジョイスっておもしろいね。


95.久生十蘭 ノンシャラン道中記

「ノンシャラン道中記 」(1934) は、久生十蘭のデビュー長編である。
自身のパリ滞在の経験を元に、コン吉・タヌ子を主人公とした邦人二人組のフランス縦断の珍道中を描いたものである。そのポップでスラプスティックな調子と展開ときたら!とても戦前の日本で書かれた作品だとは思えない。比類なき名作であると書き留めておきたい。

「署長さん、実は昨夜、われわれの車(マシン)が盗まれました」
「ほほう、どんな車(マシン)だね?」
「二人乗るくらいの、ほんのちょっとしたやつなんですけど」
「番号は何番じゃったね」
「あの車に番号なんかあったかしら?」
署長は大きな帳面を引き出して、親指の腹を舐めあげ舐めあげ頁を繰っていたが、
「盗まれたのは何日だといったかね?」
「昨夜なんですの」
「昨夜? いや、そんな事はあるまい。もう六ヵ月にもなっている。あんた達の車というのは、拾得物としてちゃんと届け出てありますぞ。ご安心なさるがいい。今、引き渡しますから、ここで待っていなさい、いいか」
といって戸外へ出て行ったが、やがて、曲馬団ででも使ったと思われる「二人乗りの自転車(タンデム)」を押し出して来た。
「どうじゃネ?」
(ノンシャラン道中記/合乗り乳母車・仏蘭西縦断の巻) 


久生十蘭は極めて多彩な作品を残している。近時、復刊が進み、かなりの作品が簡単に読めるようになってきたことが嬉しい。わたしは、中でも、彼の捕物帳の大ファンである。暇な時に、青空文庫を開いて、「顎十郎捕物帳」や、「平賀源内捕物帳」を一篇づつ読んでいるのだが、その面白さときたら、格別!なのである。



94.R・C・ウィルスン 時間封鎖

「時間封鎖」(原題「Spin」、2005)は、「Axis」、「Vortex」と続く三部作の第一作。
これだけでも文庫版上下巻750頁の大作なのに、三部作とはいったいどれだけの大長編を書こうというのか。しかも、地球を丸ごとspinと呼ばれる膜のようなもので包んでしまおうっていうんだものなぁ。海外SF作家のエネルギーと大風呂敷には今更ながら感嘆するばかりである。

ジェイスンを殺すことになるとは知らないまま、仮定体は彼の神経システムに侵入し、システム全体を改造していた。ふと、遠い昔の記憶が甦ってきた。ぼくのボロ自転車にまたがったジェイスンが、バンタム・ヒル・ロードの頂上から走り下りた午後の記憶だった。ばらばらになってゆく自転車を、ジェスは、重力と速度以外なにも残らなくなるまで巧みにコントロールした。秩序が混沌へと崩壊してゆく運命に抗いつづける彼の姿は、優美にさえ見えた。
第四期となったジェイスンの肉体も、精密にチューンアップされた機械だった。彼の肉体は、死に抗いつづけた。
(茂木健 訳)


この作品の魅力は、しかし、そんなSF的なギミックの面白さだけではない。語り手の「ぼく」と、子供のころからの友人の「双子」の姉弟、この三人の成長物語としてもなかなか読ませるのである。それを考えると、私的には、この第一作だけで充分に堪能したという気持ち。この大風呂敷的時間譚を味わいつくした感じ。


93.フランク・オコナー ある独身男のお話

「ある独身男のお話」(1955) は、岩波文庫版 『フランク・オコナー短篇集』 に収録の一篇。
主人公は、年とった独身男のアーチー。自分の女嫌いの元となった若いころの出来事を、友人に向かって話し始めるところから物語は始まる。

アーチーは若い頃、大のサイクリング好きだった。アイルランド一周旅行を二度もやっていたし、さまざまな史跡や古戦場、城、大聖堂などを見るためにはるばる自転車で出かけていくこともしょっちゅうだった。学問があるというわけではなかったが、物事の背景を勉強するのは好きだったし、相手の無知を思い知らせることにも躊躇はしなかった。「な、ジェームズ、君、ほんとにその場所のことを知ってるんだよね?」仕事場で誰かがうっかりぼろを出すと、アーチーは意地悪そうに言ったものだった。「もし知らないんなら、教えてあげてもいいけど」。むろん、彼は同僚からは疎まれていた。(阿部公彦 訳)


このあといよいよ女性から酷い目に遭わされたという経験が語られていくのであるが、しかし、その話を聞くにつれ、いったいほんとうに悪かったのは二股、三股をかけていたというその女性なのか、それともアーチーの方なのか、なんだかよくわからなくなってしまう。アーチーについても、・・・まわりから疎まれてはいるのだろうが、それほど悪い人間ではなさそうな気がしてくるのである。その辺の謎のかけかた、人間の描き方が、オコナーはとても巧みなのである。
・・・アーチーについては、トオマス・マンが書いた「小フリイデマン氏」を、ちょっと思い出した。比較するとアーチーの方が、まだましではないか、元気を出せよと。


92.アントニオ・タブッキ 土曜日の午後

「土曜日の午後」(1978-81) は、短編集 『逆さまゲーム』 に収録の一篇。
本の巻頭に 『ものごとの、なんのことはない裏側』 というロートレアモンの文章の一節が引用されている。この短編集を通じて、 《 逆さま/裏側 》 が一貫したテーマになるのだという。作者自身のまえがきによれば、「ある日。予知できない人生の状況のなかで、それまで 〈こうにちがいない〉 と思っていたことが、そうでないということに気づいた。そんな発見。これらに気づいたとき、わたしはしんそこ驚いた。」この短篇集では、これが主題になる。

自転車に乗ってた、とネーナはいった。ハンカチを四すみでくくって、あたまにかぶってたのよ。じっと見てたら、むこうもわたしのこと、じっと見てた。なにか家にあるものが欲しいっていう感じだったけど、まるで、立ちどまるとまずい、っていうみたいに、行ってしまった。二時きっかり、だった。
(須賀敦子訳)


引用したのは 「土曜日の午後」 の冒頭の部分。自転車に乗った奇妙な格好の男が家をのぞいていたのよ、と子どもが母親に報告している。母親の方は、なにか心当たりがあるようである。それが何なのか、ゆっくりとした語り口で、示されていく。
…タブッキの小説は技巧的である。巧みな設定、導入、展開、収束。わかっていながら、こころが揺さぶられる。白水社/須賀敦子訳のタブッキ集は、5冊だったか6冊だったか、全部抱え込んでしまいたくなる本ばかりである。


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