762. ボリバル侯爵 (ぼくらの本が歌う時)


ボリバル侯爵

レオ・ペルッツの 「ボリバル侯爵」(1920)、
百年前に書かれたこの長編は、今も、ほんの少しも風化せず、まるでリョサの新作かボラーニョの遺作のように刺激的である。
見事なプロット、鮮やかなストーリーテリング、一反読み始めれば、たったの300ページ、ほんの2時間ほどで読み切って、ため息をつく。もっとゆっくり読めばよかった。

 わたしたちは錯乱の虜となった。市に迫る脅威も、<皮屋の桶>も、合図を待つゲリラもすべて忘れた。誰かの悪態が聞こえた。血が凍るほど瀆神的な言葉だった。狂犬病にやられた犬みたいな咆哮がそれに和した。ブロッケンドルフとドノプがオルガンめがけ、怒涛のように木の階段を駆け上がるのが見えた。
 ひとりが鞴をを踏み、ひとりが鍵盤を叩いた。オルガンが鳴り響き、タラベラの歌が丸天井に反響して部屋に満ちた。わたしたちは四人いっしょになって、歌いに歌いまくった。エグロフシュタインが乱暴に体を揺すり拍子をとった。そしてオルガンは歌を圧し潰すばかりに轟きわたった。
(垂野創一郎訳、2013、国書刊行会)


物語の舞台は、19世紀初のスペイン、ナポレオン軍に加わって遠征してきたドイツ連隊が、現地のゲリラと戦う・・・。
と、こんなふうに書けば、古風な歴史小説だと誤解されるかもしれない。
そうではない、決してそうではなく、これは、歴史に題材を取った幻想小説、
いや、幻視小説と言えばいいのだろうか。ともかく、
とてつもなく面白くて愉しくて、読み終わるのがもったいない本なのである。



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763. 銃、ときどき音楽/ジョナサン・レセム(ぼくらの本が歌う時)


銃、ときどき音楽


ジョナサン・レセムの「銃、ときどき音楽」を読む。
レセムは、第一長編の本作(94年)で、ローカス賞を取り、第五作の「マザーレス・ブルックリン」(99年)で、全米書評家協会賞を受賞している。日本でいえば、デビュー作でメフィスト賞を取り、後に三島由紀夫賞を取った舞城王太郎のような作家か?いや、知ったかぶりは止めて、単に、既成のジャンルを超えた作品を書いてきた作家だとだけ書けば良かった。

おれがほしかったものは過去で失われたわけではない。一度も失われたことはない。それは未来で失われている。そうなるべきだったのに、そうならなかったおれ自身。おれがその意味に気づかず、それなしで生きられると考え、自分のなかで手放した一本の糸。
(「銃、ときどき音楽」、浅倉久志訳)


「銃、ときどき音楽」、近未来のサンフランシスコを舞台に、クールで、しがない民間検問士(私立探偵のようなものだ)の活躍を描いた小説。つまり、私の大好きな私立探偵/ハードボイルドものだ。さらに、近未来小説ということは、SF仕立てだということだ。
といっても、奇作の類ではない。この小説は、90年代のハードボイルド・探偵小説の秀作の一つだと私は思う。
この小説の場所から、少しSFの方向を見れば、ディックやギブスンがいるし、ハードボイルドの方向を振り替えれば、チャンドラーやロスマクがいる。ただ、それでも、この作品を読むと、「SFミステリ」というジャンル自体が持つ怪しさを感じなくもない。
実際に、「銃、ときどき音楽」も、"怪しい"部分があるのである。
敵役の一人は、せこいカンガルーの殺し屋であるし(獣人化技術の進捗)、主人公は、ガールフレンドに男性の快感神経終末を持ち逃げされる(代わりに女性の快感神経終末を得る)、などというだらしのないクールガイであるという設定。
まあ、本格ミステリファンの側からは、バカミスだと断言されても仕方がないような部分があったりするのも事実だ。
でも、誤解しないように、この小説は、快作だ。SFとミステリが見事にまだら模様に融合し、クールでシニカルな近未来の探偵をイキイキと描きだしている。イキイキしていると同時に、悲しみと喪失感で壊れそうになる近未来の世界と探偵の姿を、クリアに描いている。間違いなく、90年代のハードボイルド・探偵小説の秀作の一つだと私は思うのである。


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761. スナーク狩り (ぼくらの本が歌う時)


スナーク狩り


ルイス・キャロルの「スナーク狩り」(2014、集英社版)、
珍しい「左開き」の本、と書いてから気がついたが、本文が横書きなら和書でも左開きは当然で、珍しくはない。
だったら、初めに、
トーベ・ヤンソン 絵、穂村弘 訳、
と書いておけば、普通に「珍しい」ってことになったのだから、すごく遠回りしてしまったわけである。

この言葉この言葉こそ怖ろしい
  三度云ったら現実になる

(『スナーク狩り』から、「反歌」穂村弘・訳)


物語は、九つの章で構成されている。
「第一の歌~第八の歌」、そして最終章の「反歌」である。
キャロルの愉しい物語、ヤンソンの奇妙な絵、
そして穂村の・・、この訳文は何と言えばいいのだろう。
五七調の韻律を使いながら、独特の調子に引き込もうとする試みは面白い。
しかし、相手が、キャロルとヤンソン、である。
穂村さんといえど、タメを張るのは難しかったというわけである。
・・・結論。高橋康也・訳の『スナーク狩り』が手元にあるのなら、これは無くともよかったか。




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760. 堤中納言物語/花を手折る人 (ぼくらの本が歌う時)


堤中納言物語


光文社古典新訳文庫から出た蜂飼耳・訳の『堤中納言物語』、
評判通りの面白さである。
ここには十篇の短篇と一篇の断章が収録されているが、冒頭の「花を手折る人」から、早速唸らされる。

 月の光に、だまされてしまった。
 もう夜が明けたものと思いこんで、慌ただしく女の家を出てきた。きっと女は、もっと一緒にいてくれればいいのに冷たいな、なんて思い悩んでいるんだろう。そう思うと、いまからでも引き返したほうがいい気もする。けれど、いざ戻るには、もうかなり来てしまっている。戻るに戻れない。そのまま、ふらふら、家路を辿る。
(「花を手折る人」、冒頭、蜂飼耳訳)


魅力的な書き出しである。
この後の物語の展開に巧みに誘い込む力を持っている。
蜂飼訳の魅力が、早速、感じられる部分でもある。
この新訳の魅力は・・・、
つまり、これは、口語短歌の魅力のようなものなんだな。などと思ったりする。

 ある家を目にしてはっとする。思い出す。あ、そうだ、ずっと前、この家にいた女とつきあったことがあった。すごい昔のことだけど。にわかに、記憶がよみがえってくる。(中略)
中将は、お供の男たちを少し離れたところへ行かせた。そして透垣のそばの、すすきがいっぱい生い茂っているところに隠れた。そこから邸の様子をうかがう。
すると、こんな声が聞こえてくる。(中略)
年頃の侍女だ。きれいな子だ。すっかり着なれた感じの、宿直のすがたをしている。少し紫がかった赤色の、つやのある衵を着ている。よく梳いた髪が、小袿に映えて、すごくきれいだ。
 その侍女は、明るい月の方へ扇をかざし、顔を隠しながら歩いてくる。「月と花とを・・・・・」という古歌を口ずさみつつ、桜の方へ近づいてくる。
(「花を手折る人」、蜂飼耳訳)


月の夜、扇をかざし顔を隠し、古歌を口ずさみながら歩いてくる少女、
なんとも美しい情景であると思う。
千年近く前に成立したこの物語が、眼前に蘇って来る、そんな動きを感じたのである。


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759. 森谷明子 春や春 (ぼくらの本が歌う時)


春や春


俳句も"歌う"と言うだろうか。
それはともかく、森谷明子の『春や春』(2015、光文社)は、「俳句甲子園」をテーマにした長編小説である。
ぴかぴかの青春小説でもある。
比べるとしたら、末次由紀の『ちはやふる』や、河合克敏の『とめはねっ!』をイメージすると、おなじジャンルの作品だと言ってもいいのだろう。では、漫画ではなくて、小説である意味があるのか?

 茜は「納音」の字の横に続けて、二つの俳号を書いた。
 荻原井泉水
 種田山頭火
「この人たちも俳人なわけね?」
「そう。井泉水や山頭火っていうのも三十ある納音のひとつなの」
「で、潤下水も納音のひとつなんだ?」
「うん。・・・・・・私、昔知っていたの。この名前で俳句を詠んでいた子を」
 そう。いたのだ。潤という俳号の男の子が。昔参加していた句会に。
(「春や春」、第一章から引用)


例えば、この「納音(なっちん)」についての地味なエピソードから、初恋の男子の思い出につなげていく箇所など、小説ならではの手管だと感心してしまってもいいのかもしれない。
それに、競技かるた(ちはやふる)や、パフォーマンス書道?(とめはね)と比べると、言葉の創作活動そのものを題材とするという点で"俳句"は小説に仕立てやすかったのかもしれない。
作中、高校生たちの作品として提示される俳句や、それを生み出していく過程、出来上がった作品を推敲したり、批評しあう様子など、小説らしい表現が駆使されていて、とても面白い作品に仕上がっていると思うのでありました。



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758. 僕はこの話を誰にもしなかった (ぼくらの本が歌う時)


Susan Stambergs anthology The Wedding Cake in the Middle of the Road


スチュアート・ダイベックの短篇「僕はこの話を誰にもしなかった」は、アンソロジー『道のまん中のウェディングケーキ』(1992、スーザン・スタンバーグ、ジョージ・ギャレット編)に収録の一篇。
アンソロジーには、タイトル通り、"道のまん中に置かれたウェディングケーキ"が組み込まれていることをテーマにして書かれた、23の短篇小説が収録されている。
邦訳(1994、白水社)では、ダイベックの一篇が冒頭を飾る。
   編者によれば、ダイベックはこの掌編において、『3ページ半の中にまる一冊分の成長小説を盛り込んだ』と、紹介している。確かに、それくらいの魅力があふれているのである。

二人がはじめてやって来た夜のことを僕は思い出す。そして、そのあとに続いた祝宴の夜を。六月なのに、いつも大晦日みたいに華やかだった。僕の短波ラジオにはビッグバンドの音楽がかかっていて(その放送局はなぜかジェイとトリッシュが来ているときに限って聞こえてくるのだ) ピ! ピ! ピ! とミニチュアのシャンペン・ボトルが跳ねた。二人が「アウト・オブ・ノーホェア」に合わせて踊る姿は本当に素敵だった。(中略)
「実を言うとだね」とジェイはほとんどひそひそ声まで声を落として言った。「(中略)僕はこの話をまだ誰にもしてないけど、トリッシュと結婚したのはだね、何と言っても、彼女が僕の人生に魔法をもたらしてくれたからなんだ。彼女がラジオをつけると、この上なく美しい歌が流れてくるんだよ」
(柴田元幸訳)


この美しい引用部だけでは、作品全体のイメージはとらえられないだろうと思う。
短篇の主人公は、あくまで語り手の「僕」である。しかし、物語をリードしていくのは、間違いなく引用部に登場する不思議な花婿と花嫁なのである。・・・ダイベックが仕掛けたこの物語の構造の中に、身を任せていると、きっと"美しい歌"が本当に聞こえてくると思う。だから、読まないと損だと思うのである。



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757. フルーテッド・ガールズ (ぼくらの本が歌う時)


第六ポンプ  第六ポンプ、2


パオロ・バチガルピの短編 「フルーテッド・ガールズ」(2003)、
短編集 『第六ポンプ、その他の短編』 (2008、ローカス賞受賞) に所収の一篇。
感想は、もう、すばらしいの一言で、バチオガルピは短篇もすごいんだなあ!と開いた口が塞がらなかったかもしれない。
ちなみに作品のタイトルは、(楽器の)”フルート化された少女たち”の意味である。念のため。

 フルーテッド・ガールズが中央のステージに立っても、最初はだれも見ていなかった。たんに風変わりな存在だった。白い肌の天使が抱きあっているだけ。(中略)
 演奏開始。まずリディアの体が鳴りはじめる。開放音が全身の開いた鍵から流れ出す。続いてニアの体を鳴らす。二人の体に吹きこまれる息がもの悲しい音を響かせる。
(中原尚哉訳)


物語は、楽器として生体改造され、秘密のパーティでステージに立たされる姉妹のはなし。
といっても、単なるワンアイデア・ストーリーではない。
導入部、展開部、そして結末に至るまで、魅力と驚きにみちている。
特に、この結末には感嘆した。
いやちょっと自分なりに陳腐なラストシーンをイメージしていたものだから余計に。



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756. ヒー・ヒズ・ヒム (ぼくらの本が歌う時)


四月怪談


大島弓子の短篇 「ヒー・ヒズ・ヒム」(1978) は、大島弓子選集第8巻に所収。
登場するのはひとりの男子高校生、彼がイギリスのロックシンガーにそっくりだというところから物語は始まっていく。引用するのは、その作中歌(?)である。

-ラッカー行進曲-

今日の苺はラッカのかおり
今日の苺はラッカのかおり
シェラック ラッカラッカ
シェラック ラッカラッカ
アーサーラッカムラッカはぬらぬ
苺にぬらぬ
だけど今日はラッカのかおり
いまやイチゴはすごいかがやき
ひとくちかじればWA・・・O・・・O・・・O・・・N
WAOOOON
WAOOOON
シェラックラッカラッカ
シェラックラッカラッカ
(くりかえし)


意味はよくわからぬが歌詞にはアーサー・ラッカムが登場する。
このことだけでも、この作品の価値を証明して余りあるのではないか。
そう思ったりするのである。
そして念のために書き添えれば、この「ヒー・ヒズ・ヒム」もなかなかの名作であると、そう思ってみたりするのである。



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755.花よりも花の如く (ぼくらの本が歌う時)


花よりも


「花よりも花の如く」は、成田美名子の長編コミックス。隔月刊『MELODY』、連載中。
能の世界をテーマにした作品である。
感想は・・・、少女漫画の王道のところできちんと愉しませてくれる。それに尽きるのである。

「今回 初めて能に行きましたけど なかなか大変なものですね」
「いかがでした?楽しめましたか?」
「あらすじは頭に入れて行ったのに聞き取るとなると もう至難の技で 
気持ちを切り替えて音楽として聴いてみたら すごく面白かったです
楽器の人も声を出すし 歌に和声がない」
(第12巻、「紐頓の林檎」)


引用したのは、主人公の憲人(能楽師)が、舞台を見にきてくれた武内望(知人、盲目である)と話す場面。
能にとって音楽がとても重要な要素になっていることに改めて気づかさせてくれる。

ところで、能や歌舞伎の「囃子方」が、わたしは大好きである。
引用部にあるように、あれに和声(ハーモニー)があったとしたら面白いだろうな。




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754. 最初の舞踏会 (ぼくらの本が歌う時)


カリントン  カリントン2


レオノラ・カリントン(レオノーラ・キャリントン 1917-2011)は、シュルレアリスムの画家であり、小説や詩も書いた。その才能とエネルギーは、羨むばかりである。この1930年代に書かれた 「最初の舞踏会」 という短篇にしても、とんでもない傑作だと思うのである。いや、傑作などというよりも、もっと凄いものと言っておいたほうがよさそうだ。

 かれこれするうちに時が経って階下から音楽が聞こえてくると、あたしは言いました、
「さあ、行ってらっしゃい。忘れてならないことは、お母さまのそばに決して寄ってはいけないということ。お母さまだけは、あたしでないことを必ず見破ってしまいますからね。でもほかのひとは、誰もあたしを知らないわ。うまくおやりなさい」
 別れるとき、接吻してやりましたが、ハイエナにはとても強い臭いがありました。
(澁澤龍彦訳)


邦訳は、創元文庫版『怪奇小説傑作集4 フランス編』に所収されている。
このアンソロジーはまた、自信を持ってお薦めできる一冊でもある。
でもまあ、他人のおすすめなんてちっとも当てにはならないわけであるが。



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