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1008.イーユン・リー 黄金の少年、エメラルドの少女 (bicycles in fiction Ⅱ)


黄金の少年、エメラルドの少女


イーユン・リーの短篇集『黄金の少年、エメラルドの少女』(2010)、
いつもながら巧みな作品が並んでいて、堪能させてくれる。
巧みさが、小説の面白さをまったく損ねていないことも、特筆すべきだと思う。
優しさや、記憶や、孤独や、未来が、これ以上はないと思えるほど鮮やかに描かれていてこころを打つ。

窓の外を見た。薄茶色の分厚いコートを着た女が自転車に乗って、通りの長い車列の間を縫うように進んでいく。自転車の荷台に取りつけた竹製の椅子に、灰色のストールにくるまれて性別がわからない小さな子供が座っていたが、周囲の車からいらだたしくクラクションを鳴らされても、母親同然に平然とした顔をしていた。寒楓はその子供を指さしてみせた。彼も思余も、こんなふうに北京の道をたどってきたはずだ。彼は母親の後ろ、彼女は父親の後ろで。
(篠森ゆりこ訳、河出書房新社、2012)



そして、読後の幸福に浸っていると、さらに面白いものに巡り合った。
「訳者あとがき」の中に、作家自身の印象深い発言が引用されているのを見つけたのである。
ここで、彼女は、彼女の小説術について語っている。

物語を書いたら、その物語が外へ出かけていって他の物語と語り合うというふうに考えたいんです。私の物語が世に出て自立するための場をウィリアム・トレヴァーの物語が作ってくれたので、私の物語はたえずトレヴァーの物語と語り合っています。たとえば表題作「黄金の少年、エメラルドの少女」は、彼の「三人〔Three People、未邦訳〕)という物語と語り合うように書きました。
もちろん人間と同じで、物語は親しみを感じる相手とだけ心地よくつき合っているわけにはいきません。他の物語と議論したり、ときには論争したりしたいのです。
(篠森ゆりこ訳)


つまり、わたしも考えたわけである。
わたしが(拙い)短歌を詠んだら、その短歌が外へ出かけていって他の短歌と語り合うというふうに考えればいいのだと。これって、結構、だいじな発見かなと。



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1007. ミス・ブロウディの青春 (bicycles in fiction Ⅱ)


4560072035.jpg Jeanbrodie.jpg


ミュリエル・スパーク(1918-2006)の長編、「ミス・ブロウディの青春」 (1961) を読んだ。
これはスパークの出世作であり、代表作であるそうだ。
69年には、映画化もされている。
しかし、2013年に河出書房から出た短篇集、『バン、バン!はい死んだ 』 の記憶があまりに強烈だったため、あらためてこの旧作の長編を読むと、少し混乱してしまったりする。短編のブラックな調子、スラプスティックな書きぶりをイメージしながら、この本を開くと、その堂々とした物語の始まりにちょっと驚いてしまうのである。ジェーン・オースチンを間違えて開いてしまったか、とは思わないにしても。

 マーシア・ブレイン女子学園の女生徒としゃべる時、男の子たちは間に自転車を置いてハンドルに手をかけていた。自転車が両性間の保護策になり、ほんの立ち話だけ、という印象をあたえる。
 校門からあまりはなれていないし、無帽は規則違反なので、女の子たちはパナマ帽を脱ぐわけには行かない。四年生以上なら、ななめにかぶったりしなければ、少々かぶり方が規則に反していても大目にみてもらえることになっている。つばを後であげ、前で下げてかぶるのがきまりだったが、女生徒たちはそれぞれ、ほんのわすがだけ違反するかぶり方を工夫していた。男の子がいるのでぴったり身体をよせ合って立っているこの五人娘も、それぞれはっきり違ったかぶり方をしている。
 この五人組がブロウディ組の生徒だった。
(「ミス・ブロウディの青春」 、冒頭。岡照雄訳、白水社)


それはまあ、読み進めていくと、これはスパークの長編なんだということがようくわかることになっている。
この巧みな物語の底を流れる皮肉で意地悪な調子は、まさにスパークの一番の面白さだということに、否が応でも気づかされるのである。

物語の舞台は、1930年代のスコットランド、エジンバラの町。
女子校の教師ブロウデイと、彼女の生徒たちをめぐる物語である。
・・・いつものようにぼんやりとした気分で読み始めても、すぐに物語の魅力に深くはまりこんでしまう。
なんでイギリスの作家というのは、こうもストーリーテリングの才に長けているのだろうかと、恨み言のひとつもいいたいくらい面白いのである。





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1006. 自転車型タイムマシン (bicycles in fiction)


SF的世界で


チャールズ・ユウの「SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと」(2010)を読んでいる。
主人公の「僕」は、タイムマシンの修理とカスタマーサポートが仕事で、個人用タイムマシンに乗って生活している。小説はとても面白い。円城塔の翻訳(早川書房、2014)というのも、それ自体が楽しみってものである。
しかし、この小説を読んでいると、気になることがあった。
なんと、タイムマシンが、こんな「電話ボックス」型だったのである。
それはない! と世界中の自転車ファンは叫んだことだろう。


From the 1960 film The Time Machine based on the H.G. Wells
(From the 1960 film The Time Machine based on the H.G. Wells story)

HGウェルズ以来、タイムマシンの正当な姿とは、いつも"乗り物の形"をしていなければならないのである。


urban_time_machine_large.jpg
(2011 poster / marketing concept for Cycle Sheffield.)


そして、近未来のタイムマシンのあるべき姿というのは、この画像のような軽快でカジュアルなものがふさわしいのではないか。デロリアンのような自動車タイプは、重々しくてちっとも現代的ではない。
やはり、近未来には、自転車型タイムマシンこそが主流になっていくのではないだろうか。



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1005. 血液と石鹸 (bicycles in fiction)


血液と石鹸2  血液と石鹸


リン・ディンは1963年、サイゴンに生まれ、70年代央にアメリカに移住。
英語で詩と小説を書く。
『血液と石鹸』 (2004)、は彼の第2短篇集である。
37の掌編、特徴は、皮肉と笑いと自虐。短くて小さな物語が並んでいる。
邦訳は柴田元幸訳、早川書房(2008)。

本を持ち歩いている人間は、未開社会であれ先進社会であれ、畏怖の念とまでは行かずとも、それなりの敬意を寄せられるものである。この事実を知るがゆえ、メコンデルタのただなかのファットダット村に住む無学の自転車修理工ピエール・ブイは、どこへ行くにも本を一冊持ち歩くようになった。
その魔力はてきめんであった。乞食や娼婦がパタッと声をかけてこなくなり、強盗にも襲われなくなったし、子供たちは彼の前では静かになった。
はじめは一冊しか持ち歩かなかったが、そのうちに、もっとたくさん持てばさらによい印象を与えるはずだと思いあたった。というわけで、いつも最低三冊は持ち運ぶようになった。祭日で街なかに人があふれるときなど、十冊あまり抱えていった。
(「本を持ち歩くこと」、柴田元幸訳)


引用した「本を持ち歩くこと」も、わずか2頁の短い作品である。
70年代のベトナムを舞台にした掌編、皮肉と笑いと自虐が特徴、とこれだけ書けば、たぶんこの物語の結末、落ちの部分もわかるはずだ。だが、予想通りだとしても、物語はきちんとあるべきところに着地し、ぼくらにある種の感銘を与えるのである。それは、リン・ディンの書く言葉や文章やレトリック、それ自体に皮肉と笑いと自虐が練り込まれているからだと思う。いわば、麺自体に味がついているパスタのようなものである。ソースやトッピングがなくとも、充分に美味しい。それは、彼が、詩を書くこととも関係があるのだと思う。



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1004. 日はまた昇る  (bicycles in fiction)


hemingway_2015072209160653d.jpg


ヘミングウェイは自転車が好きだったらしい。
上の画像にあるように 『その国の良いところを知るには自転車を乗り回すのがいちばんだ』 というような文章が残っている。
ちなみに、このパーカーは、今なら夏のセールで30ドルで買えるが、どうだろうか。

彼の小説のなかにも、自転車はたびたび登場する。
特に、1920年時の作品には、当時の自転車レースの様子が描かれていて面白い。
例えば、短篇では「追い抜きレース」(『男だけの世界』1927、所収)、そして、長篇では「日はまた昇る」(1926)。

しかし、この記事で、引用しようと思うのは、自転車レースのシーンではない。
こんな箇所である。

  I got up and went to the balcony and looked out at the dancing in the square. The world was not wheeling any more. It was just very clear and bright, and inclined to blur at the edges. I washed, brushed my hair. I looked strange to myself in the glass, and wentdown-stairs to the dining-room.
 "Here he is!" said Bill. "Good old Jake! I knew you wouldn't pass out."
 "Hello, you old drunk," Mike said.
 "I got hungry and woke up."
 "Eat some soup," Bill said.
 The three of us sat at the table, and it seemed as though about six people were missing.
( Ernest Miller Hemingway 「The Sun Also Rises」,1926)

 おきあがってバルコニーへ行き、広場の踊りを見わたす。あたりはもうぐるぐるまわっちゃいない。くっきりとあざやかで、端のほうがぼやけて見えるばかりだ。顔を洗って、髪にブラシをかける。鏡に映った自分を他人のようにながめて、階下の食堂におりる。
 「やあ、きたぞ」ビルが言う。「ジェイクの大将! 君がまいっちゃわないことはわかってた」
 「よお、よっぱらいの先生」マイクが言う。
 「腹がへって、目がさめた」
 「スープでも飲(や)れ」ビルが言う。
 三人でテーブルについたが、まるで六人くらいの人間がいなくなってるような気がした。
(谷口陸男訳、岩波文庫)


引用したのは、「日はまた昇る」の第2部18章の最後の部分。
小説全体としても、もう終盤にさしかかった場面である。
・・・「祭り(フィエスタ)」が終わりに近づき、喧騒もとぎれつつある時間。彼らは、ホテルの食堂に集まって話を始める。

この最後の部分、『三人でテーブルについたが、まるで六人くらいの人間がいなくなってるような気がした』、 という文章がどうにも魅力的で、いつまでも頭の中に残っている。祭りの後の状景が、あるいは戦争の後の状景が、こんなふうにワンショットで、ただの数行で描かれてしまう! 当たり前の感想だが、心理描写などなくても、小説は成立し、抒情詩だって書けてしまう。いやはやぼくたちだって、感傷的なフレーズばかりの歌など、作っている場合ではないのである。



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1003. 新聞少年の名誉 ( bicycles in fiction Ⅱ)


Kurt Vonnegut


カート・ヴォネガットの「新聞少年の名誉」、1950年代に書かれた短篇である。
作家の没後に出版された未発表小説集 『Look at the Birdie』(2009)に所収。
作品集の邦訳のタイトルは、『はい、チーズ』(河出書房)、である。
    しかし、 新聞配達と少年と自転車 という三者の蜜月のような関係は、いつから崩れてしまったのだろうか。

 そのとき、サタンが吠えている相手の姿が見えた。自転車に乗った少年の脇を、肉切り包丁のような歯をむきだしにしたサタンが走っている。吠えながら頭を左右に振り、おそろしい牙で空気を切り裂く。
 少年はまっすぐ前を見つめ、犬などいないふりをしている。チャーリーがこれまでに見た中で、いちばん勇敢な人間だ。この英雄の名は、マーク・クロスビー。十歳の新聞配達員だった。
(大森望訳)


幸いなことに、1950年代のアメリカには、まだ自転車に乗った新聞配達の少年が健在であった。
しかも、勇敢な少年、である。
ヴォネガットも彼の作品も、確かに懐かしい。
しかし、今は、それよりも、この自転車に乗った新聞配達の勇敢な少年のことが、とても懐かしく感じるのである。



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1002. 北斎忌 ( bicycles in fiction Ⅱ)


     
  河べりに自轉車の空北齋忌   下村槐太




彼が仮に二百十歳まで生きていたら、あるいは槐太のこの句を絵で見せてくれたのではあるまいか。百号近い画布半分を錆色に塗り潰し、下半分は白のまま、左端に微かに石階が見え河岸を暗示する。中央に荒荒しい筆致で自転車一台、鑑賞者の胸のあたりに立ちはだかり、空は車輪の放射状のスポークの間からしか望めぬ。粗描と見える自転車も近づいてよく観ればギアの鋸状の歯から、チェーンの環の油垢、テールライトの硝子の亀裂まで実物さながらに描かれている。後キャリアからロープが一本垂れてその色がこの大幅中只一色暖色の朱、眺めているうちにそぞろ鳥肌立ってくるような凄まじい絵である。乗るべき人を自転車が拒み、曇天はその自転車と相容れず、画面全体が観る人を締め出して、ある瞬間くるりと向きを変えるような錯覚を覚える。人の心と辛うじて繫るのは一すぢの朱のロープであるが、それも地に届く以前に絶たれた。(中略)
その無念さを百年後に槐太がこのしたたかな俳諧によって晴らしたとは私の独合点だろうか。しかし「河べりに自轉車の空」と一時一音の無駄も含みも叙情もない惜辞に、私は俳諧師槐太の孤高狷介な風貌と魂を見る思いがする。(以下略)
(塚本邦雄「百句燦燦」)



槐太の句は、没後の句集『天涯』(1973年)に所収。
塚本の文章は、勝手ながら旧字、旧仮名遣いを新字、新仮名遣いに変えて引用した。
それにしても、この句のみごとなこと。「塚本による北斎の自転車の絵」を見てみたいというわたしの感慨など、言うまでもないが、この句の前ではまったくちっぽけなものにすぎないのである。なお、北斎忌は陰暦四月十八日、西暦では五月十日である。


  北齋忌自轉車でゆく橋めぐり  雀來豆




1001. 俺たちは自転車を殺す (bicycles in fiction Ⅱ)


月の部屋で Meet Me in the Moon Room  月の部屋で会いましょう


Ray Vukcevich/レイ・ヴクサヴィッチの初作品集、『Meet Me in the Moon Room /月の部屋で会いましょう』(1995)、
邦訳は、市田泉訳、東京創元社、2014年、創元海外SF叢書の一冊、
33の奇妙な掌編が並んでいる。
「We Kill a Bicycle/俺たちは自転車を殺す」も、邦訳でわずか6頁の短い物語である。

 俺たちは自転車道に沿って身を隠している。周囲の草木は青々として、湿っぽくて、やたらと揺れ動き、川からの風にざわざわと鳴っている。アリがしょっちゅう腕に這い登ってくるが、俺は指で弾き飛ばす。そのアリが空中を飛び、膝の周りのかび臭い落ち葉の中へ長い長い距離を落下していきながら、か細い悲鳴を上げるところを想像する。ローラがいるのはどこかあのへんだ。彼女の耳に舌をつっこみたい。そしてはっと息を呑む声を聞きたい。ローラをにっこりさせたい。彼女は最近何か思いつめてる。どことなくぼんやりしている。
(市田泉訳)


英語版の紹介記事には、グリム兄弟、ディケンズ、ルイス·キャロル、カフカ、O.ヘンリー、ダリ、アシモフがラジカル再結合したような作家だ、なんて書いてあったし、Wikipediaには、ラファティやバーセルミと比較するような一文もある。なるほどと書きながら私が思うのは、物語がとっても短いので読むのが楽だということ、3分で読めたらまだカップ麺もできてやしないということ、自転車をテーマにした物語を書いてくれてありがとうということ、でも自転車は殺さないでほしかった。




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