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300. ノヴァーリス 青い花

ノヴァーリスの「青い花」(1802)は、未完の長編である。続編が読みたいと思うと切望すると同時に、未完のままでよかったと、そんなふうにも思える作品である。それはもちろん、続きを読むのが惜しいほど、美しい作品だからである。

どうやら青年は暗い森をひとりで歩いていくところだった。ほんのときおり陽光が緑の網目をとおしてほんのり射しこんできた。 (中略)限りない光彩を放ってさざ波がひろがる池へ、青年は近づいていった。(中略)
このとき青年がいやおうなしに惹きつけられたのは、泉のほとりに生えた一本の丈の高い、淡い青色の花だったが、そのすらりと伸びかがやく葉が青年の体にふれた。この花のまわりに、ありとあらゆる色彩の花々がいっぱい咲きみだれ、芳香があたりに満ちていた。青年は青い花に目を奪われ、しばらくいとおしげにじっと立っていたが、ついに花に顔を近づけようとした。すると花はつと動いたかとみると、姿を変えはじめた。・・・
(青山隆夫訳)


「青い花」は、夢の物語である。誰の夢か、どこからが夢か、いつ見た夢か、ふと聞こえてきた話も夢か、少女を恋したのも、青い花をみたのも夢なのかどうか、そんなことを考えるまもなく読みとおしてしまうほど、美しい作品なのでありました。


(kind of blue、完)


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299. レーモン・クノー 青い花

物語の冒頭、オージュ公とデモステーヌ(ペルシュ産の名馬)との会話は、いきなり核心にふれる。3ページ目にして早くも、”青い花”が登場するのである。


「おお!わがデモよ!」とオージュ公は歎かわしげに言った。「わしはこんなにも悲しく、憂鬱的であるぞよ」
「あいかわらず歴史でございますか?」とステーヌは言った。
「歴史がわしの心のうちですべての喜びを枯らしてしまうのじゃ」と公爵は答えた。
「元気をお出しあそばせ、殿さま!元気をお出しを!さあ鞍にお乗りあそばせ、そしたら散歩に出かけることにいたしましょう」
「いや、まさしくそうしようと思っていたところじゃ。そしてそれ以上のことをな」
「と、申しますと?」
「幾日か旅に出るのじゃ」
「これはたいへん気に入りました。で、殿さま、いずこへお連れいたしましょう」
「遠く!遠く!ここでは泥がわれらの花々でできておる」
「・・・青色の、でございましょう。でもとにかくどこへ?」
「よきように計らえ」(滝田文彦訳)


「青い花」(1965)、発表当時はすこぶるつきの実験小説であったはずだが、今読むとむしろその独特の可笑しさに感嘆する。遊びの感覚が独特で飛びぬけている。ラブレーがちょっと400年ほど長生きをしていればこんなふうな小説を書いたかもしれないと思ったり、主人公の二人が入れ替わりに登場するってのは歌舞伎の二役早変わりのようで愉しいったらないなとか、そんなことを思っているうちに読み終わってしまう。だから、ちょっともったいなかったかな。


298. チェーホフ 幸福

「幸福」(1887)、邦訳は岩波文庫版の短篇集 『子どもたち、廣野 他十篇』 に所収。
・・・羊飼いが、夜番をしている。一人は八十がらみの老人、もう一人はサーニカという若者。二人の頭上には天の川が広がっている。そんな夜の話である。朝焼けが見えてきた頃、もう一人の登場人物である騎馬見廻りの男が現れて、煙草の火を借りようと立止まり、三人の会話が始まる。

だが老人は、宝が見つかったらどうするか、返答はできなかった。生まれてこの方そんなふうにたずねられたことなど、どうやらこの朝が初めてらしかったが、浅はかで無頓着なその顔の表情からすると、それをそれほど重大なこととも、考える値打ちのあることとも思っていないようだった。(中略)
ぼんやりとまわりのぼやけた巨大な、真っ赤な太陽が昇った。まだひんやりとした、幅の広い光の帯が、露の下りた草に身を沈め、伸びをしながら、これは嫌なことではないのだと見せつけるように、嬉々としたようすで大地に横たわり始めた。銀色の蓬、野蒜の青い花、黄色い油菜、矢車菊  これらのすべてが、陽の光を自分自身のほほえみとして、いかにも嬉しそうに色とりどりに見え始めた。
(松下裕訳)


会話といっても、なんのことはない、取りとめのないはなしである。だが、ふとしたはずみで人生とか幸福とかいったところに話が行ったために、老人も、サーニカも、すこしだけ思いに耽ることになる。そしてもちろん、・・・『羊たちも同じように思いに耽っていた』のだという。
しかし彼らが思いに耽るのは、ほんのすこし束の間のことであって、彼らも、その思いも、すぐに朝の光に輝く草原のなかに羊とともに散ってゆくのだと思うのである。



297. フェルナンド・ペソア 不穏の書

「不穏の書」は、ペソア(1888-1935)が二十年に渡って書いた”断章”をあつめた本。彼の散文詩の代表作である。作品は、ベルナルド・ソアレスと(いう異名で)署名された手記という形態を取る。邦訳は、澤田直・編訳の『不穏の書、断章』(思潮社)に抄録されている。

私は澄み渡った深い空を見上げる。ぼんやりしたバラ色のなにかが、雲の影のように、羽のはえた遠い人生の触知しがたい産毛が、浮かんでいる。目をおろすと、河には、水が静かなさざ波を立てて流れ、もっと深い空からやってくる青を反映しているかに見える。もう一度、空を見上げると、見えない空気のなかではっきりとちりぢりになってゆく曖昧な色調のあいだで、くすんだ白の痛々しい調子がすでに浮かんでいる。あたかもこれらの事物のうちになにかがあって、物がより高くより空虚であるあの高みでは、自分たちの物質的な倦怠を知っているかのように、自分自身であることが不可能であることを知っているかのように、不安と困窮でできた重さのわからない体を知っているかのように。
だからどうだというのだ。上層の空気のなかに上層の空気以外のなにがあるだろうか。空には空のものであるこの色調の他になにがあるのだろうか。・・・
(澤田直訳)


都市の孤独な散策者という体裁は、いわばマルテと同じであるが、話し手がリスボンの中年の会計士に変わるだけで、趣もずいぶん変わる。引用は、<倦怠>について書かれた断章の一部である。この倦怠は、虚無と同じか紙一重のところにあるが、なにしろリスボンである、澄み渡った深い空の下ではその虚無さえ白んでしまうかのようで、・・・だからどうだというのだと呟いてしまわざるを得ないのだろうか。

ところでペソアの詩集、「ポルトガルの海」(彩流社)は、とても美しいブルーの本である。これも、だからどうだというのではないのだが。

296. マヌエル・プイグ 天使の恥部

「天使の恥部」(1979)は、プイグの小説、第五作。
デビュー作から順に並べると、「リタ・ヘイワースの背信」、「赤い唇」、「ブエノスアイレス事件」、「蜘蛛女のキス」、と来て、本作。
・・・どれも独特である。この小説にも、サスペンス、SF、ロマンス、ポリティカル・フィクション、いろんなものが詰まっている。

明るい鐘の音につられて顔を向けると、手摺のついた道の向こうに湿気と蔦に覆われたチュリゲレスコ様式の礼拝堂が見える。その眺めが気に入ってテーブルについたが、テーブルの上にはすでに様々な色の朝食が準備されていた。マメイの実の赤は嘘みたいな色だった。朱色それとも珊瑚色、紅色、ヒナゲシの赤、ガーネット、深紅それともカルミン? それに、アポカードは海緑色にマラカイトグリーン、暗緑色と彼女はつぶやく、パパイアは硫黄色かカーキ、それともシナモンかサフランの色、ナツメヤシの実は陽射の加減で煙草色、褐色、焦茶、栗色、ブロンズ色に変わる。神経質な女優は青い色が見たくなり空を見上げた。ターコイスブルー、藍色、インディゴ、空色、瑠璃色と、世界的に有名な睫を上下するたびに空の色は変わった。
(安藤哲行訳)


物語には、三人の女性が登場する。世界一の美女である映画女優、未来都市の治療師であるW218、アルゼンチンを逃れ1975年のメキシコ・シティで病に伏すアナ、・・・ぼんやりと読んでいると、この三人がそれぞれ過去、未来、現在に生きるという設定だということも、そして実はこの内二人は○○であることも、うっかり読み損ねてしまっていたりするのだから。呑気によろこんだり楽しんだりしていると、落とし穴に嵌ってしまうんだもの。



295. ボルヘス 青い虎

「青い虎」は、短篇集『パラケルススの薔薇』(1980)に収録の一篇。この作品集は、ボルヘス自身が編纂に加わり、イタリアで刊行された、<バベルの図書館>という叢書の一冊である。編者(フランコ・マリーア・リッチ)によれば、この本は、≪「青色」と「薔薇色」が主調となっている。それは誕生と文学の色であり、天から失墜して、盲目の闇の中に再び慰めを見出した精神の色である。≫、というのである。

小屋へ帰り着いて早速、私は上着を脱いだ。ベッドに横になり、ふたたび虎の夢を見た。その夢のなかで例の色をじっくり観察した。それは、以前に夢見た虎の色であり、大地の小石の色だった。高く昇った太陽の光線を顔に感じて目が覚めた。ベッドから起きあがった。はさみと手紙が丸い小石を取りだすじゃまをした。まず一握りのものを掴みだした。まだ二回分か三回分はありそうな気がした。くすぐるような動き、ごく小さな震えが私の手に熱を与えた。手を開いてみると、丸い小石は三十、いや四十もの数に増えていた。十を越えてはいないと誓いたいような、私はそんな気分だった。それらを机の上において、別のものを探った。これらもまた数が増えていることを確認するのに、いちいち数える必要はなかった。が、すべてを集めて山にしてから、私はひとつひとつ数えてみようとした。
(鼓直訳)


「青い虎」、晩年の作品だけに、自由自在の筆の運びである。虚実だけではなく、あらゆるものが綯い交ぜになっていて、その分だけ物語の風味が増し、その分だけ少し難解でもある。もとより、これを読み解こうというつもりもないんだけどね。



294. リング・ラードナー 微笑がいっぱい

パウダーブルーのマリッティマ=フラスカーティ(ヴォネガット)のお次は、黄色のふち取りをしたブルーのキャディラックの登場である。

去年の夏ごろいつも賑やかな五番街と四十六丁目の角にいた交通巡査、ベン・コリンズという名だが、この男を見ていると、交通巡査という稼業がさほど不愉快でなく思われてくるから不思議だ。(中略)このペン・コリンズは、人を叱っている時でもいない時でも、心から人生を楽しんでいるという感じなのだ。雀斑だらけの大きな顔は明るく輝き、どんな厄介な事態に直面しても眉ひとつ曇られることはなかった。(中略)
ところが、九月のある朝、ピカピカで、真新しくて、黄色のふち取りをしたブルーのキャディラックが、あらゆる常識の法則と、ニューヨーク州の法律と、ニューヨーク市の法律をことごとく破って、北の方から稲妻のように走ってきた。四十八丁目の巡査カーモディも四十七丁目のヌーナンも笛を鳴らし、大声をあげたが、この気狂い運転の車をとめられなかった。ペンはこの車を目にすると、まずその大きな身体で車の行く手に仁王立ちになり、速力を落とすか、もろにぶつかるか、二つに一つと思わせておいて、それからあわやという時に、大きな図体がよくあんなに機敏に動けると思えるすばやさで身をかわして車のステップに飛乗り、そのまま誘導運転してみごと四十六丁目と四十五丁目の間の道路わきに停車させた。(加島祥造訳)


・・・もちろんこの青いキャディラックには女性が乗っていた。世の中のありとあらゆる笑顔を永久にぺしゃんこにしてしまうような美しい笑顔の持ち主だったのである。偏愛する作家リング・ラードナー(1885-1933)の「微笑がいっぱい」(1928)、邦訳は短篇集『アリバイ・アイク』(新潮文庫)に所収。


293. ヴォネガット パウダーブルーのドラゴン

「パウダーブルーのドラゴン」(1954)、短篇集『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』(1999)に収録。若き日に書かれた作品を集めたこの本は、彼の断筆後に出版された。同じ初期の作品を集めた短篇集の『モンキーハウスにようこそ』と比べると、こちらはSF・ファンタジー色が薄い。それだけに、50年代の雰囲気が感じられて愉しいのである。

ダゲットはいらだってきた。「マリッティマ=フラスカーティは、インドのマハラージャやテキサスの石油王が遊びに乗る車だ。五千六百ドルだぞ、おい!それを買って、おまえの貯金はいくら残る?」
「車の保険と、二、三度満タンにするだけのガソリン代にはじゅうぶん」キアーは立ちあがった。「もし、ぼくに車を売りたくないなら・・・・・・」(中略)
午後の町の静けさを破ったのは、スターターの回転音とすばらしいエンジンの上品なうなりだった。キアーはパウダーブルーのマリッティマ=フラスカーティの運転席、レモン・イエローの革張りシートに身を沈め、靴の爪先でそうっと圧力をかけるたびにとどろく甘美な雷鳴に聞きほれた。ごしごし洗った顔はピンク色、髪は刈りたてだった。
「最初の千マイルはスピードを出すんじゃないぞ、いいな?」
(浅倉久志訳)


物語の舞台は、50年代のアメリカ、海辺の町に住む若者が、四年間せっせと働いてためた貯金を、そっくりはたいて高価な車を買おうとする話。いや、実際に買ってしまうのだ。
短くて軽くてなんてことのないプロットであるが、若々しくて気が利いていて、後味がすこぶるよい。ヴォネガットは、短編もいいなぁ。

292. 萩原朔太郎 青猫

『青猫』(大正12)は、朔太郎の第二詩集である。
どの時代にも、どの街にも、・・・そこにはもちろん青猫がいて、「影」を作っている。
この影のイメージは、かなり怖ろしい。まっすぐに心を突いてくる。
もちろん、初めて読んだとき、わたしもたしかに慄いたのである。

ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。
(「青猫」、第八行~最終行)



いつも思うのだが、この詩集の冒頭に付けられた朔太郎自身による「序文」がとても素晴らしい。
私が真に歌おうとするものは、≪それはあの艶めかしい一つの情緒  春の夜に聽く横笛の音  である。それは感覺でない、激情でない、興奮でない、ただ靜かに靈魂の影をながれる雲の郷愁である。遠い遠い實在への涙ぐましいあこがれである。≫・・・この序文だけ読んでも充分に愉しいものなあ。




291. ダニエル・ぺナック 片目のオオカミ

「片目のオオカミ」(1984)は、ペナックの第二作目の小説。動物園の檻をはさんで少年とオオカミが出会うところから物語はスタートする。ペナックが書くのは、カモ少年もマロセーヌのシリーズも、どれも児童文学なのだろうが、年長さんが読んでもきっかり愉しませてくれる。それは、彼が、悲観主義にも教訓話にも走らずに、ただ少年と少女をひたすら描いていくことに徹しているからだと思う。

少年は、オオカミの目の中に、それまでだれひとり見たことのないものを発見した。なんと瞳は生きていたのだ。それは、子どもたちに囲まれ、からだを丸めて寝そべっている一匹のめすオオカミの姿になった。(中略)
子どもたちは、赤褐色の光輪で黒い炎を包んでいた。
「虹彩だ。瞳を取りまく虹彩だ」と少年は思った。
そのとおり、五匹は、たしかに虹彩と同じ赤褐色だった。ただ、六番目は青い色をしていた。澄んだ空の下で凍った水のように青い。まさに青いオオカミだった!
七番目の小さな黄色のめすオオカミは、金の稲妻のようだ。この子をみつめるとき、だれもがまぶしそうに目を細めた。兄弟たちはこの子を<スパンコール>と呼んでいた。
(末松氷海子訳)


ペナックのマロセーヌシリーズは、フランスではキヨスクに平積みされるような大のベストセラーらしい。しかし、日本ではハードカバーしかないこともあって、最新作の「ムッシュ・マロセーヌ」は、なんと3,675円。
図書館需要以外に、いったい何部、売れるのだろう。わたしも、ちょっと躊躇ってしまった。海外文学ファン3,000人説ってのは今でも有効なのかしらん。・・・「片目のオオカミ」は、幸いペーパーバック版があって893円である。白水社さん、ありがとう。


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