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★ホセ・グアダルーペ・ポサダ 死者の日の骸骨の自転車乗り

死者の日の骸骨の自転車乗り(1889-1895)


自転車の絵としてイチバンに思いだしたのはこの絵だった。
メキシコの画家、ホセ・グアダルーペ・ポサダの版画である。
盛大な祝祭が行われる「死者の日」に繰り出したカラベラの自転車乗りたち!
ああ、11月のメキシコシティに乗りこんで、このサイクリストたちに遭遇したいものである。


499bike③


ポサダは、画家というより生涯 「版画職人」として生きた。
しかし、たしかなことは、後のオロスコやディエゴ・リベラなどの画家たち、およびメキシコの壁画運動に大きな影響を与えることになったということである。それだけの新しさとエネルギーと魅力にあふれていた。
そして、もちろんわたしのこころにもとっても大きな影響を与えた。
彼が描いた骸骨の貴婦人「カトリーナ」の魅力に、首ったけなのである。

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23.ガルシア=マルケス わが悲しき娼婦たちの思い出

「わが悲しき娼婦たちの思い出」(2004)、この小説は、巻頭で川端康成の小説の一節を引用し、さらに「満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた」という一行で始まる。まさにマルケス版「眠れる美女」というべき体裁なのである。

あの子のために最高級の自転車を買いに行ったが、少し試乗してみたいという誘惑に駆られて、百貨店のスロープをぐるぐる回ってみた。店員が年を訊いてきたので、老人特有のこびるような口調で、間もなく九十一歳になるんだ、と答えた。店員からは予測したとおりの返事が返ってきた。どう見ても七十代にしか見えませんよ。学校でおしえていた頃によく口にしていた言い回しを忘れずにいたことが不思議でならなかったが、ともかくそう言われて身体が浮き立つほどうれしくなった。歌が自然と口をついて出た。最初は自分のために小さな声でうたっていたが、その後偉大なカルーゾの気取ったうたい方を真似て大声を張り上げながら、雑多な店の並んでいる商店街や狂ったように車が走っている公設市場の間を自転車で走った。人々はそんな私を愉快そうに眺め、大声で話しかけたり車椅子でコロンビア一周自転車競走に参加したらどうだい、と声をかけてきた。私はそんな彼らに幸せな航海家のように手を振って応えたが、その間も歌をうたい続けた。その週に、十二月へのオマージュとして、《九十歳で自転車に乗って幸せになる方法》という大胆な記事を新たに書いた。(木村榮一 訳)


百年の孤独やエレンディラや予告された殺人の記録など、先に書かれた作品群と比べると、物語の密度は明らかに物足りない。しかし、目が眩むような文章は健在である。引用部のような文章、こんな調子の文章が続いて、いつのまにかガルシア=マルケスの世界に引きずりこまれてしまう。川端の主人公が少女の向こうに死の世界を見ているのに対し、ガルシア=マルケスの主人公は、見事に年を重ね、大いに生き続けている。これは、生きることをことほぐ「祝祭」の小説なのである。

22.カミ ルーフォック・オルメスの冒険


ルーフォック


「ルーフォック・オルメスの冒険/ヴェニスの潜水夫」(1926)、
舞台はヴェニスの運河の岸辺、時は1920年代か。
地元警察の依頼で、跳梁する水中ギャングを捕縛すべく登場するのは名探偵ルーフォック・オルメスである。


ヴェニス署長; 先生、二人乗りの自転車で水中に潜ろうなんて、貴下もずいぶん大胆不敵ですなあ!
ルーフォック・オルメス; なあに大丈夫、吾輩には腹心の部下がついている。潜水自転車ギャングを追跡して奴を逮捕しようというには、この二人乗りの自転車が必要なんだ。
腹心の部下; 先生、場合によっては海底二万里くらいはお供しますよ。
ルーフォック・オルメス; 吾輩は昨日から潜水の練習をやっとる。まず手はじめに、潜水兜をかぶって、塩水の盥に頭を漬けてみた。それから徐々に、浴槽の中へ沈んで見たんだ。・・・さあ、万事OK!君は伝書鳩を持っとるかね?
腹心の部下; 持っていますよ、先生。
ヴェニス署長; 伝書鳩ですって?
ルーフォック・オルメス; 左様!いよいよという時には、水ン中で伝書鳩を放つから!君達はギャングを逮捕するんだよ!
ヴェニス署長; さっぱりわからん。
(吉村正一郎訳)


わたしの大好きな本である。特別大好きな探偵小説である。小説というよりコントのようなものでもある。なによりカミの途方もなくナンセンスでスラプスティックなストーリーテラーぶりに感嘆する。翻訳(1936,1976)も、長新太さんの装丁・挿画(1976)も、その当時としては驚くほどモダンで、カミの物語の途方もない雰囲気を見事に出していると思う。切に復刊を望むものである。

20.吉田秋生 海街diary

「海街diary/桜の花の満開の下」(2008)、
…長谷駅の近くの商店街の肉のナカムラで出会った二人、風太は思い切ってすずを途中まで送ってやろうと言う。
もちろん、駅まで送っていくのは、これぞ少年少女のあるべき姿、自転車のニケツである。


「おまえ 極楽寺だろ? 歩って帰んの?」
「ううん 由比ヶ浜まで走ってきたんだけど 切り通し登んのさすがにキッツイから長谷から電車乗ろうと思って」
「ふーん…」
「じゃまた あしたねー」
「送ってってやるよ! 駅まで」
「う うん サンキュ」

「浅野 時間あるか?ちょっと寄り道するぞ。しっかりつかまってろよ!」
「わあ!きれい!! すっごーい!!まだ満開じゃん!桜のトンネル!」
「だろ?ここ高台で谷戸の奥だから咲くのちょっと遅いんだ」
「すごいすごい!きれーい!サイコー!」

(浅野の声がはずんでる)
(あー自転車なんかでこなきゃよかった。坂を一気に下ってしまえば 桜のトンネルはあっという間だ。もっと あともうちょっと・・・)


途中で桜を見せてやろうと寄り道をしたのはよかったが、
そこが坂道だからあっというまに過ぎてしまうとかそんなことではなくて、そもそも、少年の至福の時間ってやつは、いつも長続きなんかしないのである。風太の幸せな時もあっというまに終わりを迎えたのでありました。(「海街diary」は、月刊flowersに不定期連載されている)

19.レイ・ブラッドベリ 酔っ払い、自転車一台所持

「酔っ払い、自転車一台所持」(1980)、晶文社版のエッセイ集「ブラッドベリがやってくる」(1996)に収録。
この本は、ぜひ表紙カバーを見てほしい。ひとりの少年が自転車に乗る姿が絵に描かれていて愉しい。描いたのは、Johnny Wales、モデルは(たぶん)ブラッドベリ少年である。

とかく自信は崩れやすい。(中略) 
しかしながら、私の場合、書いたストーリーが人生の道案内になった。ストーリーが叫ぶから、私がついていく。ストーリーが駆け寄って足に噛みつくから、私が噛まれているうちに、きっちり書きとめてやろうとする。私が書きおえると、食いついていたアイデアが離れて逃げていく。
そういう暮らしを私はしてきた。いつぞやアイルランドの警察レポートにあった言い方をまねれば、酔っ払い、自転車一台所持、なのである。人生に酔っていて、これからどこへ行くのかわからない。そのくせ夜も明けないうちに旅に出る。その旅は---こわいのと、わくわくするのがちょうど半分。(小川高義 訳)


このエッセイ集には「小説の愉快」という副題が付いている。中身は、少年時代から作家に至るまでのエピソードと、彼の独特の小説作法のようなものが中心。いわば軽妙な自伝のようなものである。すなわち、自伝のタイトルが小説の愉快ということになる。いかにもブラッドベリらしいではないか。
飛行機や自動車が嫌いなブラッドベリは、出かけるときはいつも自転車だそうだ。だから、自転車に乗った予言者だとか、自転車に乗った思索者だとかって呼ばれることが多いらしい。そんな彼には、元気なうちにぜひすばらしい自転車小説を書いてほしいと思う。熱血スポーツ青春小説ではなくて、もっと奇妙で不思議なやつを、ぜひ。自転車に乗りながら書いたらしいぞと、そんなエピソードが付いてくるようなやつを。


18.吉岡実 自転車の上の猫

「自転車の上の猫」(1974)、詩集『サフラン摘み』(1977、青土社)に収録されたこの一篇、できるなら雑誌「夜想」19号(ペヨトル工房、1986)の掲載分で読みたいものである。松井喜三男の美しい挿絵が添えられているからである。いや、絵に詩が添えられているというべきか。


闇の夜を疾走する
一台の自転車
その長い時間の経過のうちに
乗る人は死に絶え
二つの車輪のゆるやかな自転の軸の中心から
みどりの植物が繁茂する
美しい肉体を
一周し
走りつづける
旧式な一台の自転車
その拷問具のような乗物の上で
大股をひらく猫がいる
としたら
それはあらゆる少年が眠る前にもつ想像力の世界だ
禁欲的に
薄明の街を歩いてゆく
うしろむきの少女
むこうから掃除人が来る


それにしても、乗る人は死に絶え/二つの車輪のゆるやかな自転の軸の中心から/みどりの植物が繁茂する、・・・そんな自転車に誰が乗りたいだろう。吉岡実さんの詩が大好きなわたしでもそれは御免である。

PS. そういえば、コロンビアの画家、ゴンサロ・ピニージャにも「自転車に乗った猫」の絵があったはず。吉岡さんが生きていれば、もういちどそんなテーマで、詩を書いてくれただろうか。

17.アルフ・マクロフラン 自転車スワッピング

「自転車スワッピング」(1996)、柴田元幸 編訳のアンソロジー「いずれは死ぬ身」(河出書房新社、2009)に収録の一篇。エスクァイア誌連載の海外短編をまとめて単行本化したものとしては、先に「夜の姉妹団」(朝日新聞社、1998)があった。この本は、第二集ということになる。
編者は、残り物を集めたにしては死や喪失・崩壊というようなテーマが絡んだ統一性のある作品が集まり、結果的になかなか面白いアンソロジーとなったとしている。しかし、実際は、第一集と比較するとやはり寄せ集め的な印象が強く、各短編の質も物足りない気がした。いやしかし、マクロフランのこの短編はとても面白かったので、念の為。

それは大いなる自転車時代であった。戦時中の私たちが路上に君臨した日々のことだ。(中略)
たがいに同意した成人のあいだで、走行中の自転車を交換する行為は、当時の反動的気風においても重罪とはみなされず、刑法修正条例ではなく交通法条例によって漠然と禁じられているにすぎなかった。この交換行為こそ、我々の技芸の頂点にほかならなかった。
(柴田元幸 訳)


自転車交換!…なんて「変な話」なんだ!
感想は、これに尽きる。発想も変だし、導入部も変だし、物語の展開も結末も変だ。
前半は路上走行中の自転車交換の実際例、といっても少年の無謀な悪戯のようなもの、どの時代のどの街にもありそうな話ともいえる。交換技術のディテールの執拗な書き込みが奇妙ではあるが、まあこれは良い、面白いしよくわかるはなしなのである。
しかし物語の後半は、とても変だ。中心になるのは、自転車転倒時の記憶喪失に悩む主人公と病床に伏す友人との会話、これがまた奇妙にドライで不思議にクール、リアルで幻想的?、不条理で超モダンな心理小説?
ここがいちばんの愉しみどころだということはわかる、しかしやっぱり…変なのである。どうもうまく読めたという気がしない。理解を深めるために、同じ作家の作品を幾つか読めればいいのだが、他に邦訳がないってのだから困ってしまう。どうすりゃいいんだ。やいやい。

16.イーヴリン・ウォー 大転落

「大転落」(1928)、イーヴリン・ウォーの第一長編。
岩波書店のブックサーチャー欄を見ると、この作品は「抱腹絶倒の滑稽小説」であるという。しかし、これは明らかに間違いである。もっとクールで軽妙なものである。わたしの感想がおかしいのかとも思ったが、なーんだ岩波文庫版の訳者あとがきにもちゃんと書いてある。『ここには抱腹絶倒を誘う過剰な読者サービスはないし、深刻に人生の不条理をみつめるふうの黒いユーモアもない。にもかかわらず、これは端正な文体で書かれた、最も純良なイギリスのユーモア文学なのである。(富山太佳夫)』 ・・・ところでこの富山太佳夫さんによる「訳者あとがき」がとても素晴らしい。簡潔で明瞭、知りたいことは全て書いてあるといってもいいほどの「名」あとがきでありました。あえて言えば「オックスフォードの街の自転車事情」について触れてくれていればよかったなあ。でもそんなこと知りたいのはわたしだけかもしれないからまあいいや。

彼は、今夜自分を待ちうけている不測の事態のことなどつゆ知らず、国際連盟ユニオンの会合から幸福感につつまれて自転車で戻ってくるところであった。ポーランドでの国民投票について、とても興味深い発表を聞くことができたのだ。寝る前に、パイプを一服やりながら、『フォーサイト家年代記』の続きを一章読もうか、彼はそんなことを考えていた。彼は門をノックし、中に入れてもらい、自転車をしまい、いつものようにおずおずと中庭を横切って部屋に向かおうとした。…( 富山太佳夫訳)


このあと主人公のポール・ペニーフェザー君は、オックスフォードのスコーンカレッジを放校処分となり、まさに大転落の運命を進んでいく。この大転落の道筋がこの小説の読みどころであり、英国流のユーモア譚が小ネタあり、大ネタありで、次から次へと重ねられ、大笑したり苦笑いしたり充分に笑わせてくれる。文庫版で約300頁の長編、途中さすがに冗長かと言いたくなるような部分もあるが、後半また持ち直し、鮮やかに物語を閉じてくれるのだから言うことはない。それは見事な長編なのでありました。

15.H・G・ウェルズ 宇宙戦争

ウェルズ(1866-1946)には、自転車についてのこんな名言があるそうだ。「Every time I see an adult on a bicycle, I no longer despair for the future of the human race.」(自転車に乗った人を見ていると、人間の未来も捨てたものでもないなという気になる)
19世紀末、ウェルズは、当時流行の先端だった自転車に乗ってロンドン郊外を走り回っていたという。

火星人が使う装置について、なによりも奇異に感じられるのは、人間が使うほぼすべての装置に共通する特徴が欠けている---すなわち、車輪が存在しないということだ。
(小田麻紀 訳)


「宇宙戦争」(1898)は、SFの古典的名作であるが、今読んでも気味悪さ十分のお話である。戦争といっても、とにかく来襲した火星人に追われてイングランドの住民が逃げまくるというだけのはなし。主人公の「わたし」もずうっと隠れているだけであって、ロンドンの町を自転車に乗って逃げまくるのは「わたしの弟」である。
しかし「わたし」は隠れてはいたけれども、実は「火星人が使う装置には、車輪がないぞ」と、こんな考察もしていたというわけか。

ちなみに、この火星人は実は未来の地球人であるという読み方もあるらしい。とすれば「車輪」もまたなにか別のメタファーであるのか・・・?。
中途半端なハテナマークを付けたところで、この項、終わります。

14.ウィリアム・サローヤン 自転車泥棒

サローヤンからサロイヤンまで、晶文社からちくま文庫、新潮文庫、角川文庫まで、これまで幾つもSaroyanの短編集を読んできた。「自転車泥棒」(1944) は、短編集「ディア ベイビー」に収録されている。いつものサローヤンのとおり、ありふれた街のありふれた物語をえがいて、ありふれた光景をきらりと煌かせている。

1919年につくられたその映画は、意気軒昂で無鉄砲だったし、話の運びも調子がよかった。
見終わって映画館を出たアイク・ジョージは、登場人物のひとりになったように、元気いっぱいで、怖いものなし、思いっきり人生を生きたい気分だった。
悪いことをしている気もなく、ほとんど無意識にアイク・ジョージは、映画館の前の自転車置き場から真っ新の自転車を引き出すと、堂々とこぎ去った。
エル通りまで来ると、日本人が経営する自転車屋で店員をしているジョニー・ファラゴーが、彼の家の前に立っていた。
通り過ぎようとするアイク・ジョージが、ピカピカの自転車に乗っているのに気づいたジョニーは、大声で呼びかけた。
「おい、坊主!」
(関汀子訳)


サローヤンの短編ではよく少年が描かれる。少年らしく悪戯と悪行ばかりの日常なのだが、不思議に明るくて無邪気で瑞々しくて溌剌としている。我が名はのアラムしかり、この短編のアイクしかりである。
家族の関係、人と人との関係、大人と子供の関係、人と世界の関係、子供が世界を見る眼、それらが全て健全で、互いをしっかりと見ていて、どちらも(人間も世界も)揺らぐことがない。だから読んだらいちどに好きになる。読んでいてこちらも思わずケンゼンになってしまう。あらどうしよう。

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