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170. ポオ モルグ街の殺人事件

「モルグ街の殺人事件」(1841)は、ポオが書いた三篇の探偵小説(=パリを舞台にした「デュパンもの」)の第一作である。作品の冒頭では、「僕」がデュパンと知り合うことになった経緯が語られているのだが。なんと二人が出会ったのは、図書館なのだという。(・・・そんなことを喜ぶのは、わたしくらいかもしれないが)

十八××年の春から夏にかけて、僕は、パリ滞在中、C・オーギュスト・デュパン君と呼ぶ人物と、知合いになった。(中略)
はじめて知り合ったのは、モンマルトル街の、とある名もない図書館でだった。ちょうど偶然、僕も彼も、同じ、あるきわめて特殊な稀覯書を探していたので、二人は、たちまち親しくなった。僕たちは、それからも、たびたび会った。ことに僕は、彼が詳しく話してくれた彼の一家の歴史、いや、あのフランス人というのは、談一度己を語るということになると、実になんでもアケスケに話してくれるものだが、僕もまたその話に、すっかり興味を覚えてしまった。
(中野好夫訳)


後に探偵小説の元祖と位置づけられるようになったポオのこの作品群には、しかし、驚愕のトリックとか衝撃の謎解きとかが用意されているわけではない。では、何に驚くかというと、ポオ自身が『分析的能力なるものを、特に人並外れて具えている人間にとっては、それは、常に生き生きとした楽しみの源である』と書いていることである。さらに『真に想像的な人間は、決って必ず分析的である』とも書いている。つまり、ポオの魂の持つ二重性の片方がこの「分析力」であり、それを駆使して書きあけたのが、この探偵小説ということになるのだろうか。

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169. マーク・トウェイン トム・ソーヤーの冒険

当然のことなのだろうが、「トム・ソーヤーの冒険」(1876)には、図書室や読書のシーンがほとんど出てこない。図書館ブロガーの一人としては、もう少しトムに、本を読む姿をみせてくれるとか、"いいところ"を見せてほしかったと思うものである。

参観人の一行は貴賓席に案内され、ウォルターズ先生の訓話が終わるのを待って一同に紹介された。中年の紳士は、とてもえらい人物であることがわかった。だれあろう郡の主席判事で  子供たちがこれまで拝んだこともないようなえらい人だった。(中略)
ウォルターズ先生は、あらゆる種類の仕事を、忙しそうに、てきぱきと片づけるふりをして、何か目につくかぎり。いたるところで命令を発し、判決をあたえ、指示し、「いいところ」を見せはじめた。図書係は、本を腕いっぱいかかえて、あちこち走りまわり。大仰に騒ぎたてて、図書係相応の「いいところ」を見せた。(中略)
男の子たちは、あまりにも熱心に「いいところ」を見せようとしたので、とうとうしまいには紙つぶてと、つかみあいの音で、あたりが騒然となってしまった。そして、そのすべての上に、問題の偉人は悠然とかまえて、重々しい裁判官の微笑を教室ぜんたいに投げかけ、偉大さという太陽で自分自身をあたためていた。つまり、彼もまた「いいところ」を見せていたのだ。
(大久保康雄訳)


晩年のトウェインは、強い厭世感にとらわれていたのだという。しかし、訳者によれば、『おかしなことに、この虚無的な厭世思想は、彼の現実生活には、それほど暗い影を落とさなかったようだ』ともいう。いつも陽気にふるまう姿を見せていたというのである。彼もまた「いいところ」を見せていたのだろうか。


168. S・リーコック がんばれガートルード・・・

「がんばれガートルード、または純真な十七歳」は、イギリス系カナダ人のユーモア作家、リーコック(1869-1944)が書いた短編。彼の作品は、1920年代に全盛を極めたアメリカン・ユーモア小説に大きな影響を与えたという。邦訳は、浅倉久志編・訳のアンソロジー『忘れられたバッハ』(1991)に収録されている。

ノッシュ伯は書斎の暖炉の前に立ちはだかっていた。老練な外交官であり、政治家であるにもかかわらず、その厳格で貴族的な顔は激怒に七転八倒していた。
「息子よ」と、伯爵はいった。「この娘と結婚しなければ、おまえは勘当だ。もう、わしの息子とは思わん」
若いロラルド公子は父の前に突っ立ち、父に負けずに挑戦的なまなざしを投げかえした。「お好きなように。これからは、ぼくもあなたを父親と思いません。べつのを見つけます。ぼくは最愛の女性とでなければ、結婚はいやです。第一、父上も顔を知らない娘と  」(中略)
あたかもこのとき、一台の軽二輪馬車が、ノッシュ伯爵家の定服をまとった御者にあやつられて、ノッシャム・トーズの並木道に入ってくる光景が見られた。御者のそばには若い娘がすわっていたが・・・、(中略)いうまでもあるまい。この娘こそ、この日からノッシャム・トーズに住み込み奉公することになった、家庭教師のガートルードだった。(浅倉久志 訳)


はてさて、この英国流ユーモア小説というのは、50年後、100年後の異邦の読者にとっては「タチ」が悪い。笑えるか笑えないかは読んでみないとわからないのである。そして、リーコックのこの作品については、・・・最初からネタばれしているにもかかわらず、最後までまずまず楽しめた、とだけ書いておこうと思う。しかし、彼の作品を読んだグルーチョマルクスが楽屋で大声をあげて笑っていたというエピソードは、とうとう実感できなかったのである。

167. J・B・モートン 書斎に死体が・・

「書斎に死体が・・」は、J・B・モートン(1893-1979)が書いた短編。英国流の"ユーモア・スケッチ"ってやつである。
邦訳は、浅倉久志編・訳のアンソロジー『忘れられたバッハ』(1991)に収録されている。

村の駐在巡査ジョージ・ブービィは、ヘンリー・ファゾック卿の書斎のフランス窓からこうこうと明かりがさしているのを見ても、べつに驚きはしなかった。(中略)
彼はちゅうちょなくスウィグニー館の美しい芝生を横ぎり、明かりのさしたフランス窓へ直行した。書斎を残して邸内はまっ暗、大ぜいの招待客もとっくに就寝したあとだ。しかし、ブービィは、その明かりのついた部屋の中で、なにがデスクの上にうつぶせになっているかを知っていた。そこに発見されるものは、サー・ヘンリーの死体  それも他殺死体  にちがいない、という確信があった。勇を鼓したブービィは、手帳片手に、半開きのフランス窓をくぐった。一歩足を踏み入れた瞬間、彼はデスクを見つめたまま体を凍りつかせた。信じられぬ光景に茫然となったのである。書斎はもぬけのからだ!豪華な椅子の上に死体がない。
(浅倉久志 訳)


はてさて、この英国流ユーモア小説というのは、50年後、100年後の異邦の読者にとっては「タチ」が悪い。笑えるか笑えないかは読んでみないとわからないのである。さらに、この種のユーモアについては、他人の感想ほどあてにならないものはない。ジェローム・K・ジェロームしかり、ジーヴスしかり、(モンティ・パイソンしかり)・・・。
そして、J・B・モートンのこの作品については、・・・最初からネタばれしているにもかかわらず、最後までまずまず楽しめた、とだけ書いておこうと思う。しかし、チェスタトンが語ったとされるような「雷の嵐のような笑い」は、体験できなかったのである。


166. ランペドゥーサ 山猫

物語の舞台は、1860年から1910年のシチリア。イタリア統一運動を経て、その後の半世紀を辿り、その中で滅亡していく名門貴族家の有為転変を描く。
以下の引用部は、有名な舞踏会の場、会場となった邸宅に重く立ちこめる死の感覚に心を乱された公爵が、小さな部屋に退き、身体を休める場面である。

このときまでは、感情の高まりとともに、苛立ちはむしろ彼を元気づけたのであったが、いまこうして緊張が解けると、不意に疲労が襲ってきた。時間はすでに午前二時になっていた。彼は愛すべき兄弟たち、とはいえ相変わらず退屈な仲間たちから離れたところに、安心して腰を下ろすことができる場所を探した。それはすぐに見つかった。小さく静かで明るい、そして人気のないところ、図書室だった。いったん腰を下ろしたあとふたたび立ち上がり、小机の上の水を飲んだ。<本当に美味いものは水しかない>。いかにも生粋のシチリア人らしく考えた。そして唇の上に残った滴を拭おうともしなかった。もう一度腰を下ろした。図書室は気に入った。すぐにくつろいだ気持ちになれた。彼の利用を妨げるものはなかった。なぜなら、住むことのない部屋がそうであるように、特定の個人の所有物という感じがなかったのである。(中略)
扉が開いた。「伯父さま、今夜は本当に素敵ですよ。黒の燕尾服姿が素晴らしく似合ってらっしゃる。いったいなにを見てるんですか?死神(ラ・モルテ)を口説いているんですか?」
(小林惺訳)


「山猫」(1958)は、滅亡の物語である。だから、美しいに決まっている。平家物語しかり、である。
それ以外に、付け足すことのない名作である。
故・小林惺氏の訳文も格調が高く豪奢で煌いている。


☆Visit to a Library in Venice

Visit to a Library in Venice

Pietro Longhi、visit-to-a-library

開催中の「ヴェネチア展」へピエトロ・ロンギを見に行く。
わたしの目当てはもちろん『Visit to a Library』(1760)である。が、見当たらない。出品リストにもないから当たり前か。仕方がないからロンギの『香水売り』や、『貴族の家族』を見る。これはこれで素晴らしい。


ティッツィアーノtitian055

次はティッツィアーノでも見よう。見たいのは『知恵(Wisdom)』(1560)である。が、見当たらない。マルチャーナ図書館の壁から剥がせなかったのか、今回は来てないのだという。キュレーターさんに相談すると、代わりにティントレットの『愛の始まりの寓意』(1562)を見て帰ればいいと言う。これも昔はマルチャーナ図書館にあった絵なのだからと。
そんなものかなとも思う。これはこれで素晴らしいのである。


PS. 帰りに「天亀八」でかき揚げ丼を食べようと思ったが、こちらも見当たらなかった。


165. スタニスワフ・レム 完全な真空

『完全な真空』(1970)は、架空の本に対する架空の書評を集めて一冊の作品集に仕立てたものである。訳者によれば、この本は、ラブレーからボルヘスに至る<架空の書物>の先駆者たちと同じ動機を備えているという。すなわち、①風刺と哄笑の精神、②珍しい書物へのコレクター的欲望、③自分で書くことのできない書物への愛惜の念、の三つである。

下記の引用は、この作品集の『「イサカのオデュッセウス」という探検物語に対する書評』から採った。・・・アメリカの田舎町イサカに生まれたホーマー・オデュッセウスは、今、人類の進歩の為に、世界の辺境から<最高級の天才たち>を探し出し、組織する運動を主宰している。

探索の手は、世界中のあらゆる図書館に及ばねばならない。図書館の中でも稀覯本や珍しい手稿を集めた部局、そしてとりわけ、ありとあらゆる紙くずが底に押し込まれた地下室などは、見逃せなかった。しかしながら、そういった場所で成功をあまり期待し過ぎてもいけない。オデュッセウスが自分の書斎にかけた地図の上で、赤い丸印がついていたのは、まず第一に精神病院である。同様に、古ぼけた癲狂院の汚水溜めや下水道の発掘出土品などにも、オデュッセウスは大きな期待を寄せていた。(中略)なぜならば、まさにこういった所にこそ、人類が軽蔑し、存在の境界の向こうに掃き棄てたものすべてが見つかるからである。
(沼野充義、工藤幸雄、長谷見一雄訳)


しかししかしレムのことであるから、先人たちの模倣だけでは終わらない。彼自身が別の作品でこんなふうに語っているのだという。  『ボルヘスが我々に説明してくれた天国や地獄は、人間には永遠に閉ざされたままのものだ。我々が作りつつあるのは、より新しく、より豊かな、より恐ろしい天国と地獄なのである』  レムは、それこそがSF作家の使命だと言っているのだろうか?!

164. The Library Lions

①アンディとらいおん (絵と文、J・ドーハーティ) 

よく はれた ひでした。そよかぜが はたを ひらひら ゆるがしています。アンディは としょかんへ でかけて らいおんのほんを かりました。(村岡花子訳)


「アンディとらいおん」(1938)は、冒頭に『ニューヨーク市の図書館の前に座っている二匹のライオンに捧げる』という言葉が添えられている。カポーティの『ティファニーで朝食を』にも登場したライオンである。・・・アンディが家で、借りて帰った本を読んでいると、おじいさんがアフリカのライオン狩りの話をしてくれた。その夜、ライオン狩りの夢を見た。眼が覚めてもライオンのことで頭がいっぱい。そのせいか、アンディは、学校へ行く途中で、なんと本物のライオンに出会ってしまう・・・。躍動感にあふれたおはなしは、1930年代に書かれたとは思えないほど。黒と茶色の二色だけという絵がとてもたのしい。


②としょかんライオン (文=M・ヌードセン、絵=K・ホークス)

あるひ としょかんに ライオンが はいってきました。
かしだしカウンターのよこをとおり ずんずんあるいていきます。(福本友美子訳)


「としょかんライオン」(2006)、この本でもあの『図書館前の二頭』に似たライオンが挿絵のなかで微笑んでいる。
・・・ライオンはゆっくりと図書館のなかを歩きまわり、絵本の部屋でこどもと一緒にお話しを聞いていたのだが、ふとしたことで吼えてしまう。するとすかさず、大きな声を出すのはルール違反ですよと、館長さんに叱られるのでありました・・・。この暖かさと優しさにあふれたおはなしを読んでしまったあとでは、図書館に行くたびに、そこにライオンが寝そべっていないものかとつい見渡してしまう、そんな羽目に陥ってしまうのでありました。

163. 中井英夫 薔薇の夜を旅するとき

「薔薇の夜を旅するとき」(1971)は、連作作品集『幻想博物館』に収録の一篇。とらんぷ譚四部作の中でも、この短編集がひときわ輝いているとわたしは思う。まさに珠玉の13篇が、ここには詰まっている。

車椅子の中に深く凭れこんで、容易に立上ろうとしない男を、”白人女”はいくぶん興味本位に、またいくらかは真剣に、母性本能めいた残酷さで、外へ、現実世界へつれ出そうと考えているらしかった。”白人女”という呼び名は、そうした強引さ・性急さがいくらか煩わしく思えるときの男のひそかな呟きだが、”車椅子”という、それに対する女の批評のほうが、より鋭く当たっていたかもしれない。四肢の不自由さではなく、思考の不自由さを揶揄した言葉だが、薔薇の外ではなく内を、花ではなく根を愛する男にとっては、書斎の中でその車椅子をひとり漕いでいるときのほうが、はるかに自由な天地に遊ぶ思いがするのだった。
(中略)
何千坪かのひろがりの中で、色とりどりに咲き乱れる薔薇群を見渡しながら、男はつとめて憂鬱そうに眉をしかめた。たかが、これは”外”の風景ではないか。薔薇の内部の、この世ならぬ神秘な眺めは、暗い書斎の中でしか味わえないのだ。どれほど多くの花を見たところで、その外側にいる限り薔薇を知ったことにはならない。かれらの穏やかな秩序を敬愛し、その神殿に心身とも捧げる気持ちになって初めて果される交信。動物はまず自分らが、いかに不潔で下等な生物かを自覚すべきなのだ。


中井英夫には、もちろん「虚無の供物」という大作があるわけであるが、わたしはむしろこうした短い幻想譚が好きだ。ホフマン、メリメ、リラダン、ポー、石川淳、久生十蘭と、中井自身が敬愛した作家たちの作品と並べて、この幻想譚の系譜をたどり、いつまでも読み漁っていたいと願うものである。

162. マヌエル・ムヒカ=ライネス 航海者たち

「航海者たち」(1967)、邦訳は国書刊行会・木村榮一編の『ラテンアメリカ短篇集 遠い女』に収録。中世の騎士物語に模した作品は、一口に言うと、とんでもない小説である。抱腹して絶倒して、もういちどくらい抱腹し絶倒し、なんとか読み終えることができるような。

程なくして、騎士は三人の風変わりな人物と親交を結ぶことになるが、これが彼の人生を一変させる。驚異にみちた土地の探検に加わったことがあると広言しているポルトガル人のジョアン・トルトレーロ・ダ・フォンセーカ侯爵、アンダルシア出身のしたたかなペテン師ネモローソ・デ・ビリャディエゴ、そしてヴェネチアからきたという自称名家の御曹司ピラートス・ヴェンドラミン、以上三人がその顔ぶれである。(中略)ポリムニアはうさんくさい連中だと考えて反対したが、以来あの三人はロブロ・フォン・クヴァッツのそばから離れなくなった。
ポリムニアが顔をしかめたのもむりからぬことであった。というのもポルトガル人、スペイン人、イタリア人のあの三人が、食糧貯蔵室の食べ物を手当たり次第に喰い尽してしまったのだ。牛飲馬食とはまさにあのような食べっぷりを言うのだろう。書斎に陣取った三人は、片方の手に鶏の腿肉、あるいはワイン・グラスをもち、もう一方の手で天球儀や地球儀をくるくる回していた。
(入谷芳孝、木村榮一訳)


20世紀も後半になると、とんでもない小説というのも品切れになってきて、そうするとやっぱラテンアメリカだね、ということになる。ムヒカ=ライネスのこの作品は、寓話でも幻想譚でも、もちろん騎士物語のパロディでもなく、むしろ正調の王室物語の系譜に位置付けるのがいいのかもしれない、なんてもっともらしいことを書き綴っているとまた思い出してくすくすと笑ってしまうような作品。

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