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293. ヴォネガット パウダーブルーのドラゴン

「パウダーブルーのドラゴン」(1954)、短篇集『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』(1999)に収録。若き日に書かれた作品を集めたこの本は、彼の断筆後に出版された。同じ初期の作品を集めた短篇集の『モンキーハウスにようこそ』と比べると、こちらはSF・ファンタジー色が薄い。それだけに、50年代の雰囲気が感じられて愉しいのである。

ダゲットはいらだってきた。「マリッティマ=フラスカーティは、インドのマハラージャやテキサスの石油王が遊びに乗る車だ。五千六百ドルだぞ、おい!それを買って、おまえの貯金はいくら残る?」
「車の保険と、二、三度満タンにするだけのガソリン代にはじゅうぶん」キアーは立ちあがった。「もし、ぼくに車を売りたくないなら・・・・・・」(中略)
午後の町の静けさを破ったのは、スターターの回転音とすばらしいエンジンの上品なうなりだった。キアーはパウダーブルーのマリッティマ=フラスカーティの運転席、レモン・イエローの革張りシートに身を沈め、靴の爪先でそうっと圧力をかけるたびにとどろく甘美な雷鳴に聞きほれた。ごしごし洗った顔はピンク色、髪は刈りたてだった。
「最初の千マイルはスピードを出すんじゃないぞ、いいな?」
(浅倉久志訳)


物語の舞台は、50年代のアメリカ、海辺の町に住む若者が、四年間せっせと働いてためた貯金を、そっくりはたいて高価な車を買おうとする話。いや、実際に買ってしまうのだ。
短くて軽くてなんてことのないプロットであるが、若々しくて気が利いていて、後味がすこぶるよい。ヴォネガットは、短編もいいなぁ。
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☆ 人魚

人魚というと、わたしの中では、”青”のイメージである。下の画像のようなもの。
でも、大好きな映画「スプラッシュ」(ロン・ハワード、1984)では、人魚がちっとも青くなかった。

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(「Blue Mermaid」、メキシコの民芸品)


それはともかく、ついでだから”人魚”の小説をひとつ。
フレドリック・ブラウンの「人魚物語」、である。短篇集『未来世界から来た男』(1961)に所収。

彼女が驚いて髪の毛を後ろへ投げやった拍子に、それまで髪で隠れていた顔と胸があらわになった。彼はこんなにも美しい生き物がこの世に存在しえたのかと目を見張った。
彼女は紺碧の瞳に、はじめは恐怖の色をたたえて、まじろぎもせずに、ロバートをじっと見つめた。それから、「あなたは男なの?」とたずねた。
(小西宏訳)



ははは、さすがはフレドリック・ブラウン、笑い転げること必至!
そりゃあまあ、ただの下ネタなんだけどさ。



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292. 萩原朔太郎 青猫

『青猫』(大正12)は、朔太郎の第二詩集である。
どの時代にも、どの街にも、・・・そこにはもちろん青猫がいて、「影」を作っている。
この影のイメージは、かなり怖ろしい。まっすぐに心を突いてくる。
もちろん、初めて読んだとき、わたしもたしかに慄いたのである。

ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。
(「青猫」、第八行~最終行)



いつも思うのだが、この詩集の冒頭に付けられた朔太郎自身による「序文」がとても素晴らしい。
私が真に歌おうとするものは、≪それはあの艶めかしい一つの情緒  春の夜に聽く横笛の音  である。それは感覺でない、激情でない、興奮でない、ただ靜かに靈魂の影をながれる雲の郷愁である。遠い遠い實在への涙ぐましいあこがれである。≫・・・この序文だけ読んでも充分に愉しいものなあ。




291. ダニエル・ぺナック 片目のオオカミ

「片目のオオカミ」(1984)は、ペナックの第二作目の小説。動物園の檻をはさんで少年とオオカミが出会うところから物語はスタートする。ペナックが書くのは、カモ少年もマロセーヌのシリーズも、どれも児童文学なのだろうが、年長さんが読んでもきっかり愉しませてくれる。それは、彼が、悲観主義にも教訓話にも走らずに、ただ少年と少女をひたすら描いていくことに徹しているからだと思う。

少年は、オオカミの目の中に、それまでだれひとり見たことのないものを発見した。なんと瞳は生きていたのだ。それは、子どもたちに囲まれ、からだを丸めて寝そべっている一匹のめすオオカミの姿になった。(中略)
子どもたちは、赤褐色の光輪で黒い炎を包んでいた。
「虹彩だ。瞳を取りまく虹彩だ」と少年は思った。
そのとおり、五匹は、たしかに虹彩と同じ赤褐色だった。ただ、六番目は青い色をしていた。澄んだ空の下で凍った水のように青い。まさに青いオオカミだった!
七番目の小さな黄色のめすオオカミは、金の稲妻のようだ。この子をみつめるとき、だれもがまぶしそうに目を細めた。兄弟たちはこの子を<スパンコール>と呼んでいた。
(末松氷海子訳)


ペナックのマロセーヌシリーズは、フランスではキヨスクに平積みされるような大のベストセラーらしい。しかし、日本ではハードカバーしかないこともあって、最新作の「ムッシュ・マロセーヌ」は、なんと3,675円。
図書館需要以外に、いったい何部、売れるのだろう。わたしも、ちょっと躊躇ってしまった。海外文学ファン3,000人説ってのは今でも有効なのかしらん。・・・「片目のオオカミ」は、幸いペーパーバック版があって893円である。白水社さん、ありがとう。


☆ ロセッティ ジェーン・モリスの肖像

ロセッティ(1828-82)は、ラファエル前派の画家、詩人である。その芸術理論はひとまず置いておくとして、彼は生涯に渡ってジェーン・バーデン(ジェーン・モリス)をモデルにした絵を描き続けたことでも知られる。その絵の数は、優に100点を越えるらしい。この”ブルー・シルク・ドレス”を着た「ジェーン・モリスの肖像」(1868)も、その一枚である。


ロセッティJane-morris-blue-silk1868


絵の美しさにはもちろん、執拗にジェーンの絵を書き続けたロセッティの想いにも、ためいきが出る。テート・ギャラリーでこれもジェーンをモデルにした「プロセルピーナ」(1874)という作品を見たならば、ためいきどころか涙まででたりして。




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290. テネシー・ウィリアムズ 青い子どもたち・・・

「青い子どもたちの原っぱ」(1939)は、作家が、テネシー・ウィリアムズというペン・ネームで書いた最初の作品だという。・・・主題は、”青春の名残り”である、といってしまうと身も蓋もないか。

「どこへ行くの?」煉瓦敷きの舗道づたいに、南のほうへ引っぱって行く彼にマイラは訊いた。
「あの詩に書いた原っぱを見せてあげたいんだ」(中略)
「これだよ、青い子どもたちの原っぱっていうのは」
マイラは、彼の暗い肩の向こう側を見た。そのとおりだった。原っぱ全体が、踊っている青い花におおわれているのだ。風が花をわけて走り過ぎ、花は風の前に薄青い波となって砕け、遊んでいる小さな子どもたちの限りなくかすかな喚声のような、やさしいささやきを聞かせた。
マイラは、自分の部屋の窓からの夜の眺めを思い起こした   いわれもなくさめざめと泣いたあの夜ごとの眺め、白い峰のような大学本部の円屋根、月光に照らされた木々の枝の休みないさざ波、静けさ、そして何街区も先の、悲しげに遠い、しだいに近づいてくる歌声、愛をうたうざれ歌、夜に匂う白い柳桜の香り、雲に腐食された夜空にランプのように明るい星屑、そして彼女は思い出した   自分でも理解の出来ぬ息づまるような感じを、そしてこのすべてが、あと数か月、いや数週間で、いきなり最終的に終わるという怖れを。(河野一郎訳)


物語の主人公は小さな大学町に住むマイラ、卒業と結婚を控えているが、何か自分でもわけのわからぬ不安にとらわれる日々を過ごしている。そんなある日、同じクラブに所属するホーマーという学生が書いた詩を読んで、こころが揺さぶられる。・・・この作品は、作家の学生時代の経験がかかわっているらしい。彼自身も詩のクラブに入っていたのだという。とすれば、作家の姿が投影されているのは、ホーマーの方か、それともマイラの方か?それを考えるだけで、たっぷりと半日は楽しめると思うのだが、どうだろうか。

289. オクタビオ・パス 青い花束

「青い花束」(The Blue Bouquet )は、パスがフランス滞在時代に書いた短篇集『鷲か太陽か?』(1951)に収録されている。当時のパリのシュルレアリストたちの影響下で書かれた作品だというのだが、この掌編小説というのか、散文の姿をした詩というのか、邦訳だと文庫版で5ページほどの短いこの作品の中には、凝縮された言葉がぎっしりと詰まっている。ぎっしりと詰まり過ぎて、歪になった言葉が、怪しい軋み音をたてている。

背中にナイフのきっ先が当たり、やさしい声がした。
「動かないで。さもないと刺さりますよ」
僕は振り向かずに訊ねた。
「何が望みだ?」
「あなたの目です」。穏やかな、恥ずかし気なといってもよさそうな声がした。
「僕の目だって?何のために?ほら、少しばかり金がある。多くはないが、ないよりましだ。放してくれれば、持っているものを全部やろう。殺さないでくれ」
「こわがらないで下さい。殺すつもりはありません。ただ目を取るだけです」
僕はかさねてたずねた。
「でも、どうして僕の目がほしいんだ?」
「恋人の気まぐれなんです。青い目の束が欲しいって。この辺りに青い目をした者はほとんどいません」
(野谷文昭訳)


引用部の、最後の行、英文はこんな調子である。
'My girlfriend has this whim. She wants a bouquet of blue eyes. And around here they're hard to find.'

この<She wants a bouquet of blue eyes>ってところで、わたしは慄えました。そして、この物語から逃げ出した。


☆ 銀河鉄道の夜

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』には、すばらしい絵本や、挿絵が付けられた本がいっぱいある。大きな書店の絵本コーナーに行くと、綺羅星のように、いろんな「銀河鉄道の夜」が並んでいる。どれを手にしようかと迷ってしまうのが愉しい。しかし、結局わたしが選んでしまうのは、岩波少年文庫の表紙のようなシンプルなものである。ささめやゆきさんの絵が、この物語にはぴったりだと思うのである。

銀河


「銀河鉄道の夜」(1924~1931頃)には、青がいっぱいだ。   星祭りにこしらえて川へ流す青いあかり、活版所で活字をひろう青い胸あてをした人、青いアスパラガスの葉で飾られた星座早見、草の中でぴかぴか青く光る虫、その虫の光に青くすかし出される葉、祭りの夜に瞬く青い琴の星、夜の軽便鉄道の車室の青い天蚕絨を張った腰掛、少し青ざめたカンパネルラの顔、青や橙や緑やうつくしい光でちりばめられた黒曜石製の地図、青く灼かれたはがねの二本の針がくっきり十一時を指す白鳥停車場の時計、霧のような青白い光を出す鋼玉が混じる河原の礫(こいし)、袋の中で蛍のように青くぺかぺか光ったり消えたりしていた鳥、黒い建物の上でまわる青宝玉(サファイア)と黄玉(トパーズ)の大きな二つのすきとおった球、青い旗を振って叫ぶ赤帽の信号手、クリスマストリイのように立つまっ青な唐檜かもみの木、青じろい尖ったあごをしたカムパネルラのお父さん・・・

そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、濃い鋼青のそらの野原にたちました。いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。
するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云う声がしたと思うといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたという工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばら撒いたという風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を擦ってしまいました。
 (第六章、銀河ステーション)



ついこのあいだ、三月の初め、とある街に旅行に行った。車中で、「どちらへいらっしゃるんですか?」、と訊かれたので、わたしは(ジョバンニを真似て)、「どこまでも行くんです。」と答えてみた。もちろん、鼻でふっと笑われただけであった。



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288. メイ・サートン 海辺の家

「海辺の家」(1977)は、彼女の62-63歳のときの日記を本としてまとめたもの。先に出た「独り居の日記」の続編である。アメリカ、メイン州の海辺に立つ家に引っ越した彼女は、ここで改めて創作に打ち込みはじめる。

二月十四日 金曜日
この書斎の窓から見下ろすと、テラスの下方にタマスとブランブルの足跡が、美しいレースのように雪をぬって環や円を描いてくねっているのが見える。庭を区切る低い塀のむこうには、野原の広がりが眩しい白に輝く。そしていま、暗い花紺色の海は、南の島々に向かって幅広い帯のように広がり、太陽がきらめく飾り鋲をうちこんだ。 
青はなぜ色のなかの色なのだろう。ほかの何色が、青と同じときめきをもたらすだろうか。青い花々  一年草のなかではことに、アルパイン牧場のりんどう、夏野のデルフィニアム、忘れな草、矢車草  はいつも、はっとするほど美しく、この上なく貴重に思える。さらに言えば私はいつも、青い目の人々に惹かれてきたのではないかと思う。それにラピス・ラズリ。これはフラ・アンジェリコの使ったよほど淡い、驚異的な青で、母がよくフラ・アンジェリコの青と呼んでいた。雪の上の深い青色の影。ブルーバード。私は土手路をドライブしながらかわせみを認め、その青い翼のひらめきを見たときこんなことを考え、灰色の日々の青い海を見て悦びにひたされた。(武田尚子訳)


海辺の家に住んでいるのであるから、当然、日記には、毎日のように海についての描写が出てくる。・・・ここで彼女は、”巨大な青い花のように”海が明けてゆくのを見つめ、海の与える大きなやすらぎに慰められて、生きているのである。

ちなみに、フラ・アンジェリコ(1390/1395年頃-1455)は、主に宗教をモチーフにした絵を描いた。
"アンジェリコ"は、「天使のような人物」という意味である。

287. ユーディット・ヘルマン 冷たい青

「冷たい青(コールド ブルー)」は、彼女の第二短篇集『幽霊コレクター』(2003)に収録の一篇。訳者によれば、この作品集のキーワードは”青春の終わり”だそうだ。人生の目的をなかなか定められず、大人になるのをぐずぐずと先のばしにしている世代を見事に描いているというような評価が、ドイツでは強いらしい。

マグヌスは仰向けになり、掛け布団を肩のところまで引っ張りあげて眠っていた。穏やかに規則的に、ほとんど聞こえないほど静かに呼吸している。夜、ヨニーナはときおり、彼の呼吸を確かめるために腹に触ってみる。ほとんど呼吸音が聞こえないからだ。ヨニーナはベッドの端に座って彼を見つめる。これは禁じられているのだけれど、それでもやってしまう。ときおり、彼の本当の顔を見ることができるのだ。(中略)
彼の顔が本当は冷たいのだということを、ヨニーナはたまにしか見ることができない。本当は攻撃的で支配的、決然としていて冷たい顔なのだ。(中略)この冷たさは彼女を突き放しはしないが、惹きつけもしない。それはよその人の冷たさ、一緒に十万年を過ごしてもまだ正体がわからないような、そんな人間の冷たさだ。それは水のような冷たい事実だ。冷たい青の事実だ。イレーネにはこのアイスランド語の言い回しがとても気に入っていた。ヨニーナはささやく、「ベルリンから郵便が来たわよ」そしてマグヌスを起こす。(松永美穂訳)


この作品集に収録の七編はすべて”旅”をテーマにしている。「冷たい青」は、アイスランドに住むマグヌスとヨニーナというカップルの基に、ベルリンから二人の友人が訪ねてくるという話である。
ヘルマンは、人間と人間の関係、こころの動きぐあいを、淡々と丁寧に綴っている。だから短編なのに、ぎっしりと文章が詰まっている感じ、中篇小説を読んだような気持にさせられる。現代小説にはめずらしく(?)細やかで静かな小説を広げてみせてくれる。なのに、読後には、なにか重みが伝わってくる。静かな筆致の下に隠されていたなにかが現れてくるのである。


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