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☆ 606. Arts Chiyoda (美術館の階段)

あ3331 Arts Chiyoda2


3331Arts Chiyodaは、東京都千代田区の文化芸術プロジェクトのひとつとして開設されたギャラリーである。旧・練成中学校の校舎を改修して使用している。学校にはつきものの建物正面の大きく広い階段が、ギャラリーに生まれ変わった今も、いい雰囲気をだしているような気がする。例えば、あの階段を自転車で駆け上がったらキモチいいかもとか。



あ3331 Arts Chiyoda


場所は、外神田6丁目、秋葉原からAKB劇場やらメイドカフェやなんかの誘惑を振り払いながら、中央通りを御徒町に向って歩くと、途中にある。ところで、わたしがAKBやらメイドカフェを振り切ってArts Chiyodaへ行ったときは、二回とも日比野克彦展が開催されていた。なんで?

 

日比野克彦、stairs


なんで?と思わなくもないが、それならそれで”日比野克彦の階段”を見ながら記事を終わるのも悪くはないかと思いなおした。”階段”は、日比野さんのダンボール・アートの作品に、たびたび登場する重要なモチーフのひとつなのである。

(3331 Arts Chiyoda 、東京都千代田区)



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406. リチャード・ブローティガン やぶいちごモータリスト (フルーツ小説百選)

フルーツ小説選集を編むにあたって重要なことが幾つかある。ひとつは、中心格になる作家は誰か、つまりフルーツ小説家の名にふさわしいのは誰か、ということである。これが定まらないと、全体の構成も決められない。わたしの貧しい知識に裏付けられた歪つな嗜好から勝手な判断をくだすとしたら、その第一候補は(高屋奈月ではなくて)、リチャード・ブローティガンである。
その理由は・・・、”西瓜糖”のはなしがあるから。 というだけではなく、加えて、”やぶいちごモータリスト”があるから、である。フルーツ小説部門の長編と短編の両方でこれだけ魅了してくれる作家はいない。

いまはさびれてしまった工業地帯、やぶいちごが一面に生い茂り、廃屋になった倉庫には竜の緑色の尾さながら、つるが絡みついていた。やぶいちごの木々はすごく大きかったので、木の中心の方の良いいちごが摘めるようにと人々は木と木の間に板を渡した。
やぶいちごの木に渡された橋はたくさんあった。五、六枚の板を繋げた長さのものもあって、よく注意してバランスをとりながら行かなければならなかった。なぜなら、もし橋から落ちたりしたら、下にあるのは十五フィートほどの深さでやぶいちごのつるがあるばかりなのだから棘で大怪我をすることになるからだ。
(藤本和子訳)


「やぶいちごモータリスト」、短編集「芝生の復讐」(1971)に所収。
ひとりの男がやぶいちごを摘んでいて、その藪の向こうに何かを見つける、というただそれだけの話なのであるが、それがこんなに面白いというのはやはり作家の手腕なんだろうか。(ブローティガンほど”手腕”という言葉が似合わない作家はいないというのに)
ほんの2ページほどの掌編、なのにここにはいろんなものがいっぱいに詰まっている。小説の魅力をあふれるほどに備えている。数ある”フルーツ小説”の中でも、そして"バイク小説"のなかでも、大好きな一篇になった。



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405. L・M・オールコット 若草物語 (フルーツ小説百選)

Amy(LittleWomen).jpg

いま、同時に4冊の本を読んでいます。テニソンの詩集と「虚栄の市」とキプリングの「高原平話」と、あと、笑わないでください、「若草物語」(1868)を読んでいます。新しい職場のメンズエステティックサロンで「若草物語」を読まないで育ったのは私ひとりのようです。でも誰にも言いませんでした。黙ってその場を離れて(本屋さんに行き)、先月分のおこづかいから112円を出して本を買いました。今度誰かがライム・ピクルスのことを言ったら、何を話しているかわたしにもわかります!

あくる日、エイミーはすこしおくれて学校につきましたが、さてしめった茶色の紙包みを机のいちばん奥にしまいこむまえに、つい誇らしげに見せびらかさずにいられなかったのは、彼女としてむりもないことです。エイミー・マーチがおいしいライムを二十四個(ひとつは途中で食べてしまいました。)もってきて、みんなにごちそうするらしいといううわさは、またたくまに「お仲間」うちにひろがり、級友たちはいっせいに彼女をちやほやしはじめました。
(矢川澄子訳)


いま、試しにAmazonを調べてみたら、「ライム・ピクルス」、日本でも売っているんですね。もちろん、註文しました。三日後に到着するそうです。今度誰かがライム・ピクルスのことを言ったら、わたしも食べたことあります、といってやります!



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☆605. ピカソ美術館 (美術館の階段)

○museu picasso barcelona2


5月のバルセロナ、街には太陽の光がいっぱいにあふれ、下手なカメラマンの撮った写真も自然とコントラストがついて鮮やかに見える。ピカソ美術館の入口は、旧市街の細い表通りから少し奥まったところにあって、強いはずの光もぎりぎり届かない。この暗く狭いエントランスを超えたところに、あんなにいっぱいの力強くエネルギーにあふれた絵が待ち構えていることにまだ気がつかないでいて、のんびりとデジタルカメラを構えていたりするのはわたしである。この石造りの建物はいいねとか、まず階段を昇ってみたほうがよくはないかとか、いつもどおり無駄口をきいている。


○museu picasso barcelona1


しかし本当はエントランスの辺りでそんなふうに無駄な時間をすごしているわけにはいかなかったのである。美術館の中には、幼少期から晩年まで、あらゆる時代のピカソの作品が山のようにたくさんある。もちろん小品が多いのではあるが、小品といってもそこはピカソのこと、どれもがあふれんばかりのエネルギーにみちていて、圧倒されるばかりである。
なにしろ、 5,000点!のピカソ、である。そんなもののんびりと鑑賞できるわけもない。へとへとになって、くたくたになって、多分、1000点くらいのところで早くもギブ・アップを叫んだのだったかもしれない。

(ピカソ美術館、バルセロナ)




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404. シェイクスピア ヘンリー四世 (フルーツ小説百選)


シェイクスピアの「ヘンリー四世」(1596-97)の中に、“as plentiful as blackberries”という表現があるそうだ。”ブラックベリーの数ほどたくさんある”というのは、そんなもの捨てるほどあるよ、という意味でちょっと果物ファンには失礼な表現だと思うのだがどうだろうか。だってブラックベリーって生で食べてもジャムにしてもおいしいよねぇ。という問題ではないかもしれないが。

引用するのは、「ヘンリー四世」の第一部、第二幕第四場、愛すべき騎士フォールスタッフが、金を奪われてしまった理由を問い質される場面。”金を盗られた言い訳ならブラックベリーの数ほど幾らでもあるが、無理強いされたんじゃ何にも話さない”と意地を張り強弁するところである。

『やい、無理強いする気か?畜生、たとえ吊り責め、車裂き、そのほかどんな拷問にかけられようと、無理強いされて口を割るおれではないぞ。無理強いされてそのわけを言えるか!わけが真砂の数ほどあろうと、無理強いされるとあらば、その一つだって金輪際口には出さんからな、おれは。』
(小田島雄志訳)



むむむむむっ!書き写してみて気がついたのだが、白水社版の訳文では、肝心の”ブラックベリー”が登場してこない。
いったい、as plentiful as blackberriesは、どこに消えたのか、
と思いきや、ようく考えてみると” わけが真砂の数ほどあろうと”ってところがそうなんだよね。さすがは、小田島先生!というところか、見事な日本語である。
でも、これでは(とほほ)果物ファンの立場はどうなるの、ブラックベリーの立場はどうなるのか、とひとことくらいはわが慨嘆の念を書き残しておきたいと思うのである。残念です。



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☆604. 国立西洋美術館 (美術館の階段)

西美P1080481


迷わないと思う。日本でいちばん好きな美術館は?と訊かれたら、わたしにとっては西洋美術館がいちばんである。駅から近い。大作から小品まで、常設展が充実している(第2、第4土曜日なら無料だ)。おまけに建物はル・コルビュジエだ。そして美しい”階段”もある。これでどこに不足があるだろうか。



◎西美07


ル・コルビュジエによれば、建築において階段はとてもだいじな要素であるという。
別の階をつなぐ、或いは切り離す。
しかし、それだけではないらしい。ただ単に上ったり降りたりすればいいってものではない。階段の持つ機能でもっともたいせつなのは、”回遊性”だというのである。
だから、ひとつのフロアに二つの階段を付けたり、階段ではなくてスロープを多用したりする。

では、西洋美術館のこの階段は何か?一見して、それを昇ると突き当たってしまうような階段。
何処へも繋がらないような奇妙な階段! なんか好きだなぁ。

(国立西洋美術館、東京都台東区)




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403. E.T.A.ホフマン 黄金の壺 (フルーツ小説 百選)

ホフマン、Apfelweib


引用するのは、物語の冒頭部である。
大学生アンゼルムスくんは、ここでとんでもない災難を引き起こしてしまう。それもこれも、この冒頭の場面で、りんご売りの婆さんの籠をひっくりかえしてしまったことによる。ただ、それだけのことだったのにと悔やんでみてもしかたがない。そこから「黄金の壺」(1814)の物語は、とんでもない展開をはじめていくのである。

第一の夜話(大学生アンゼルムスの災難)

昇天祭の日の午後、ちょうど三時のこと、ひとりの若い男がドレスデン市の黒門を走りぬけるなり、そのまま一直線に、物売りのしわくちゃ婆さんのりんごや菓子の籠に飛びこんでしまいました。運よく踏みつぶされずにすんだ品々もすっかりあたりにとび散って、街の腕白どもがわっと喚声をあげて、この粗忽者がばらまいてくれた獲物をぶんどりあう。老婆の悲鳴に、まわりの菓子や火酒売りの女たちは、屋台を放りだして若者をとりかこみ、罵詈雑言を浴びせかける。若者は腹が立つやら恥ずかしいやらで口も利けず、かくべつふくらんでもいない小さな財布をさし出すばかり、老婆はそれをひったくると、すばやくふところにしまいこみました。そこでびっしり詰めかけていた人垣もほどけて、若者がそそくさと逃げ出すと、その背中に老婆の声が飛んだのです。
「そうさ、走ってゆけ   走るがいいさ、サタンの餓鬼め   ガラスの中へ、もうすぐおまえはガラスに閉じこめられるのさ!」
(大島かおり訳)


この物売りの婆さんはなおも、上の画像のように、”リンゴの形のドア・ノッカー”の姿に化けてアンゼルムスくんを追いかけたり脅したりするのだから散々だ。
・・・思い起こすべきは古来からのリンゴには近づかぬべしという教訓か。



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☆603. テイト・ブリテン (美術館の階段)

○TATE、LONDON 642
(ミルバンク側入口)


テイト・ブリテンは、大好きな美術館のひとつである。そして「美術館の階段」においても、重要な場所のひとつである。
所蔵品では、なによりもエドワード・バーン=ジョーンズの「黄金の階段」(1872-80)が、ある。この作品の優美さときたら!
そしてもうひとつ、ウィリアム・ターナーが描いた〈old library〉のシリーズの中に数枚の”階段の絵”が含まれている。これがまた絶品なのである。水彩の15×20㎝ほどの小さなスケッチのような作品群であるが、後期の大きな風景画とはまた違った魅力にあふれている。


○TATE、LONDON 1328
(マントン側入口)


それからもちろん、建築物としての”階段”も魅力的である。
テムズ河沿いのミルバンク側の入口には、大きな階段があって、記念写真を撮る観光客であふれている。(写真、上)
地下鉄に向かうマントン側の入口には、大きなスロープと階段があって、こちらは古い美術館の建物にふさわしく、ひっそりとしかし厳かな雰囲気を醸し出している。(画像、下)



そして美術館の中に入ってみるとそこにも・・・、


■tate britain millbank project rotunda staircase_0


なにか不思議な螺旋階段が待っているのでありました。
(テイト・ブリテン、ロンドン)



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402. ユイスマンス 大伽藍 (フルーツ小説百選)

カミーユ・コローの「シャルトル大聖堂」(1830,1872)を見る限りでは、そこにひとりの男の狂おしいまでの傾倒を引き出すようなラディカルな美や神秘がいっぱいに詰まっているとは想像しにくい。落ちついた色彩と構図の中に聳えるこの大聖堂には、むしろおだやかで静かな時間が流れているように感じるのである。

ユイスマンスの長編小説「大伽藍」(1898)の第十章は、カトリックにおける”植物の象徴学”の解説に当てられている。「大伽藍」という作品は、シャルトル大聖堂の美の探求を通じて、中世のカトリックの神秘主義に迫ろうという試みであるのだが、この第十章もまた植物誌という形態を通じてカトリックの神秘主義と象徴学について語られていくことになる。

・・・植物の象徴学そのものへと話をすすめましょうか。
通常、花は善の紋章です。デュラン・ド・マンドによれば、花は樹木と同様、美徳を根に有する慈善を表します。オノレ・ル・ソリテールによれば、緑の草は賢者であり、花をつければ進歩する人のこと、果実をつければ完璧な魂のことになります。加えて、象徴学的神学の古い概論によれば、植物は復活を寓意とするとされており、永遠という概念が割り当てられているのは、なかんずく、ブドウ、ヒマラヤスギ、それからヤシですね・・・・・・。(中略)
・・・ブドウについて主は言われました。「我はブドウのつるなり」と。
(野村喜和夫訳)



引用したのは、主人公のデュルタルが、プロン神父に案内されて、司教館の庭園や果樹園をめぐり歩きながら、植物の象徴的意味について、はなしを聞く場面である。ここでは、植物は徹底した善悪の二元論によって選り分けられ、神と悪魔の象徴体系の中に組み入れられ、語られていくことになる。
・・・しかし、そうした衒学的で鹿爪らしい論議を横に置いておいたとしても、意外なことにこのカトリック的「植物誌」はとても面白い!のである。
たとえば「かわいそうなエジプトイチジク」のはなし。あるいは、「貧相な灌木、クロウメモドキ」のはなし。プリニウスの博物誌を持ちだすつもりはないが、かの名著「フローラ逍遥」に勝るとも劣らず、とくらいは書いておいても良いだろうと思うのである。



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401. イーヴリン・ウォー ブライヅヘッドふたたび (フルーツ小説百選)

「果樹園」というのは、とても魅力的なイメージを秘めた言葉だと思う。
花が咲き誇り、瑞々しい果実が枝を圧するようにあふれている場所というのは、すなわちわれわれすべてにとっての楽園のようなものではないか。たとえばゴッホにとってアルルで”Vergers fleurissants”の作品群を描いたときがいちばん幸せな時期であった。悟空が遊んだ蟠桃園も然り。

若い時に無為というのは何と類がない絶妙なものだろうか。又、何と瞬く間に失われて、二度と戻って来ないものだろうか。(中略)兎に角、その夏ブライヅヘッドで過ごした無為の日々は、わたしには天国に近いものに思われた。(中略)

私はその夏を一緒に過したようなセバスチアンとして彼を覚えていたい。私達は連れ立って魅せられた宮殿の中をさ迷って行き、刈り込んだ黄楊の生垣で区切られた果樹園を セバスチアンは車付きの椅子を進めながら冷たい苺や温かい無花果を探して廻り、或は温室から温室へ、一つの匂いから又別な匂いへ、一つの季節から違った季節へと、麝香葡萄の房を切ったり、私たちの上衣の襟に挿す蘭の花を選んだりして移って行き、又、わざとひどくまだ歩き難そうな振りをして階段を登って行って、昔の子供部屋の、擦り切れた花模様の絨毯の上に私と腰を降して、私たちの廻りには空になった玩具箱が並び、部屋の隅ではホーキンスばあやが縫いものを していて、「貴方達ってのは何てまあ、しようがない人達なんでしょう。子供と同じじゃありませんか。大学で一体、何をしているんです、」と言ったりするのだった。今は、セバスチアンは露台に向った列柱の間の安楽椅子に日光を浴びて嵌り込んでいて、わたしは彼の脇に固い椅子を引っ張って来て噴水を写生しようとしていた。
(吉田健一訳)



果樹園というのは、すなわちわれわれすべてにとっての楽園のようなものではないか。・・・と思ったら、イーヴリン・ウォーも書いていました。
「ブライヅヘッド ふたたび」(1945)というとびきりの作品の第一部は「曾てアルカディアに」と題されていて、主人公が果樹園のある屋敷ですごした或る年の美しい夏を回想する文章が綴られている。

引用したのは、第一部・第四章、
”若い時に無為というのは何と類がない絶妙なものだろうか”という文章で始まるこの章には、美しくてありきたりで儚くてとびきりの、チャールスとセバスチアンという二人の青年の物語の全てが詰まっているように思える。もちろん、ただの楽園ではなくて、そこにはかなしみもはかなさも一杯につまっているのである。




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