スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

418. ブルックリン・フォリーズ/フリント船長がまだいい人だったころ

Brooklyn_Follies.jpg


オースターも年齢を重ね、物語の主人公もいよいよ「中高年」の男となってきた。
邦訳としては最新作の「ブルックリン・フォリーズ」(2005)の主人公のネイサンは、六十歳近くの男である。大病を患ったあと、退職し、離婚し、”静かに死ねる場所”を探すつもりで小さい頃住んでいたブルックリンの街に越してきたところである。ここから物語は始まっていく。
主たる登場人物は、ネイサンと、甥っこのトム、トムの雇い主で古書店を経営するハリーの三人である。

トム まだわかりませんね。あなたはホテル・イグジステンスという場所を思いついたわけだけど、それってどこにあるんです? 何のためにあるんです?
ハリー 何のため? べつに何のためでもないさ。それは隠れ家だったんだよ、心のなかで訪ねていける場さ。そういう話じゃなかったのかい? 逃避っていう。
(中略)
ハリー もしトムがあたしのホテル・イグジステンスを肯定してくれないなら、トムのホテル・イグジステンスの話を少し聞かせてもらいたいね。誰にだってあるんだから。同じ人間が二人といないように、それぞれみんなが違うホテル・イグジステンスを持ってる。(中略)
トム (長い沈黙。やがて、自分に語りかけるような小声で) 僕は新しい生き方をしたい、それだけです。世界を変えるのは無理でも、せめて自分を変えようと試みることはできる。でも一人ではやりたくないんです。ただでさえ一人でいすぎているし、自分のせいであれどうであれ、ネイサンの言うとおり今も落ち込んでいます。(中略) ハリー、僕のホテル・イグジステンスとは何かと、お訊ねですよね。よくわかりませんが、たぶん、他人と一緒に暮らすとか、このネズミの穴みたいな街を抜け出して自分が愛し敬う人たちと人生を共にするとか、そういうことなんだと思う。
ハリー コミューン。
トム いえ、コミューンじゃなくて、コミュニティです。その二つは違います。
(柴田元幸訳)


ある土曜の晩、この三人が料理店の奥でテーブルを囲んでいる。次の料理が来るのを待つあいだに交わされるとりとめのない会話は、ふと、”空想のエデン”についての話に行きあたる。ネイサンは、そんなもの『内なる逃避だよ。現実世界がもはや不可能になったときに人間が行く場所だよ』と言い捨てるが、ハリーと、トムは何やら言いたいことがあるようなのである。彼らなりの”楽園(エデン)”についてのイメージを話しつづける。
・・・ここでハリーとトムは、彼らの空想の楽園を『ホテル・イグジステンス』というイメージを借りて話しだすのである。


敷地の視察第一回。荷を解くとすぐ、私たちはスタンリーの名高き芝を見に外へ出る。何分かのあいだ、刻々変わっていく感覚の流れに私はひたすらさらされている。足元の柔らかな、よく手入れされた草の感触。アブがぶんぶん耳許を過ぎていく音。芝の匂い。スイカズラとライラックの茂みの匂い。家の縁にそって植えたあざやかな赤のチューリップ。空気が振動しはじめ、少しあとに、かすかなそよ風が私の顔を撫でていく。
三人の仲間と犬一匹とともに私はぶらぶら歩き、頭ではとんでもないことを考えている。(中略) 私はトムの夢を夢見ていて、その可能性に酔いしれている。六十エイカーの森。池。荒れたリンゴ園、うち捨てられた蜂の巣のコレクション、メープルシロップを作る森の小屋。そして、スタンリーの芝。美しい、切れ目のない芝生が、私たちの周りじゅうに、さらにその向こうに広がっている。
(柴田元幸訳)


後日、ネイサンとトムは、たまたま訪れた町で、ホテル・イグジステンスにもってこいの場所を見つけたような気がする。芝生、虫、草花、風、リンゴの木。そこにさまざまなイメージが重ねられる。
そしてその楽園には、”果樹園”のイメージも重ねられている。すぐにでも蜂は巣に戻り、シロップ作りが再開され、風は鈴なりのリンゴ園を吹きぬけていく、というような楽園復活のイメージが重ねられていく。もちろん、その空想の行きつくところは、いうまでもないのであるが。



When Captain Flint Was Still a Good Man


   クリスマスの夜、思いがけない人物からプレゼントとは縁のない男に靴下が渡される。
そこに、オレンジが入っていた。
この小説のいちばんの山場である。もちろんだからして、ここに詳しく書けないことが面映ゆい。

「踵にオレンジがはいってる」と言って、リチャードは声に出して笑った。「これは見とくべきだな」ジェイミーがカギを取りにいき、ドアを開けた。リチャードは長椅子に坐っていて、隣に赤いクリスマスの靴下の中身  ガムが数個、オレンジがひとつ、チョコレートバーが一本、缶入りピーナツが一缶  が広げられていた。
「それだけ?」と僕は尋ねた。「きみに靴下をあげるために来たってこと?」
(田中文 訳)


ついさきほど、オースターも年齢を重ねた、というようなことを書いた。
それに倣えば、ダイベックも歳を重ね、いよいよ彼の息子が作家として登場してきた、と書かねばならない。
「フリント船長がまだいい人だったころ」(2012)は、ニック・ダイベックのデビュー長編である。
初々しいようで巧みでもある。なによりも、引用した"オレンジ"の登場シーンは鮮烈!



にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ




スポンサーサイト

☆616.兵庫県立美術館 (美術館の階段)

◎兵庫県立CIMG3470


隣りに美術館不毛の地があることを考えると、兵庫県にはなんとバラエティ豊かなミュージアムが揃っていることか。これは寿ぐべきことである。中でも、兵庫県立美術館は、企画展が充実し、コレクション展は気が利いている。キュレーターさんのセンスと努力には感心するばかりである。ってちょっと褒めすぎたか。



◎兵庫県立CIMG3483


いやしかし、今日は”階段”のはなしである。とすれば、やはり褒めすぎなくてはならない。この”階段”こそが、この美術館の魅力のひとつなのであるから。
安藤忠雄さんが海辺に建てたこの美術館は、企画展示室へ向かう広い階段、常設展示室につながる廻廊、海側のデッキ、そして円形テラスに向かう螺旋状の小階段、どれもが個性的で、魅力にあふれている。



▲兵庫県立


そういえば、11月には、この美術館の王子分館に「横尾忠則現代美術館」が開館するらしい。
既に県内には「西脇市岡之山美術館」という横尾さんの個人美術館のようなギャラリーがある。新美術館が、岡之山美術館とは違ったかたちで、どんなふうに横尾さんの作品をみせてくれるのか楽しみである。また、どういう階段があるのかが。 




にほんブログ村 美術ブログへ



☆615. 京都国立近代美術館 (美術館の階段)

地下鉄を東山駅で降りて、疏水に沿って北へ歩く。マルセルの額縁は落ちていない。平安神宮の大鳥居が見えてくれば、左が国立近代美術館である。右には、”日本趣味ヲ基調トセル近世式建築”の京都市美術館があって、モダンな近代美術館の建物とは対照的な佇まい。
・・・鳥居を挟んで近代と現代建築が睨みあう姿はなかなかの趣きである、おっと正面には平安神宮の厳かな拝殿まで見える。これで美術館の建物に美しい”外階段”でもついていれば言うことはないのだが。



○京都国立近代美術館CIMG3395


外階段は無いが、内部には白く輝く美しい階段がある。
綴りにeの付くアンなら輝きの大階段とでも呼ぶかもしれない。近代美術館を正面から入ると、そこには吹き抜けの大きなエントランスホールがあって、ここから展示室のある三階までは、この大きな階段を昇っていかねばならないのである。えいやっと三階まで駆けあがったらそこには海ならぬギャラリー・スペースが待っているという仕掛け。この階段を昇る何十秒かの時間のあいだに、ぼくたちも美術鑑賞モードに切り替わる。



○京都国立近代美術館CIMG3393


そして槇文彦さん設計のこの美術館には、もうひとつ面白い”小階段”がある。
建物の隅に設けられたガラス張りの階段室には、障子を通したような柔らかい光が射しこんでいるのだが、ディテールも凝っていて、階段を昇るにつれ微妙にデザインが変わっていく。そして、四階まで昇り切ると、窓の外には朱色の大鳥居が見えてくるというおまけ。美術館に来たら、必ず外の景色も見なければならないという作法を教えてくれるのである。そういえば、春には一階ロビーから、疏水の桜を眺めることも出来るのだったなぁ。




にほんブログ村 美術ブログへ



417. りんごの樽のなかできいたこと (フルーツ小説百選)

『世界スパイ小説傑作選1』という古いアンソロジー(丸谷才一編・講談社文庫) をふと手にとって開いてみたら、そこにスティーヴンスンの「りんごの樽」という短編が載っている。なんと、これは、宝島の後日譚のようなものか!と読んでみるとなんのことはない、ただ『宝島』の一部を抜粋したものだった。僕は思わず、これって反則じゃないのか!と嘆いたものの聞くものはいない。いまは、まだ誰もが寝静まる青い時間である。

いまは日没直後、すべての作業がおわり、ぼくは自分の寝棚へ向かおうとして、ふと、りんごが食べたくなった。デッキにかけあがった(中略)
りんごの樽にからだごとはいると、りんごはあとひとつふたつ、あるかなしだった。だが、真っ暗ななかにすわっていると、波の音やら船体の揺れやらで、寝入ってしまったらしい。あるいは、寝入る寸前だったのか、だれか体重のある男がきて、樽のすぐ近くにどっかとすわりこむのがわかった。背をもたせかけたらしく、樽がぐらりと揺れた。ぼくがはね起きようとしたとき、男がしゃべりだした。シルヴァーの声だった。ものの十数語もきかぬうちに、ここはなにがあっても姿をみせてはいけないとわかり、恐怖に身を縮めてふるえながら、好奇心にもかられて耳をそばだてた。その十数語から、本船の善良な男全員の命が、ぼくひとりにかかっていると知ったのだ。
(村上博基訳、光文社古典新訳文庫版)


というわけでスティーヴンスンの「宝島」(1883)を読みなおしてみた。
   読みながら、ほんとうならここにりんごの樽があるといいのだけど、と僕は思った。その中に入ってどきどきしながら本を読むのがどんなに楽しいか、それにそこなら主人公のジムの気持もわかるってものさ。   とわけわかんない感想を書きつらねているのは林檎ならぬ葡萄酒をちょっと一杯ひっかけたからである。しかしともかく、「宝島」ってなんでこんなに面白いんだろう。感想はこの十数語だけである。以上、報告します。



にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ





416. 君にリンゴの果樹園を約束したおぼえはないね (フルーツ小説百選)

SNOO.jpg


『I Never Promised You an Apple Orchard』(1976)、
・・・これはスヌーピーが書いた著作集である。
本のタイトルは、谷川俊太郎による秀逸な邦訳を借りると、『君にリンゴの果樹園を約束したおぼえはないね』、となる。
意味は、”ないものねだりをしてもしかたがないさ”、というような感じ。いつものスヌーピーの人生に対するシニカルな視点が込められている。
原文の一節を引用してみる。

“Our love will last forever,”he said.
“Oh,yes!yes!yes!”she cried.
“Forever being a relative term,however,”he said.
She hit him with a ski pole.
(Charles Monroe Schulz,The Collected Writings of Snoopy)


“永遠なんて、結局、相対的なものなんだけどね”と呟いたとたん、ひっぱたかれてしまう彼の姿はもの哀しい。しかし、人間たるもの、ひっぱたかれることを覚悟してでも言うべき時ってものはある。楽園なんて相対的なものでそんなものどこにもありはしないのさと。

このスヌーピーの真摯な態度をみるにつけ、   ともすると、果樹園に”楽園”のイメージを簡単に重ねてしまいがちなわたしの貧弱な想像力を、ただ恥じるばかりである。反省のために、スキー・ポールででも林檎の木の枝ででもひっぱたいてほしい。



にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ




415. 梨木香歩 檸檬/ミニヨンの歌 (フルーツ小説百選)

小説の中のレモン、とくればもちろんゲーテの”ミニヨンの歌”にふれなければならない。
”きみ知るや南の国。レモンの花咲き・・・、” という一節から始まるこの歌は、これまで歌曲になりオペラになり、またさまざまな小説の中で引用されてきたのだが、はてさてこれはいったい、言われるように”楽園の歌”であり、またイタリアを理想郷に見立てた”アルカディア願望”を写したものなのだろうか。

梨木さんの『家守綺譚』(2004)の一篇、「檸檬」にも、このミニヨンの歌が登場する。
おなじみの”ダァリヤ”さんが登場してきて、  「いと年経たる龍の ところ得顔に棲まい」、とこの歌の一節を呟いてみせるのである。
このあと、作中では、この一節を聴いて嬉しくなった”私”が、ミニヨンの歌の第三連を諳んじてみせる。するとダァリヤさんは、「広い龍の洞の奥には、常夏の国の果実も、高山に咲く花も、何でもあるというのですが。本当かしら。本当みたいに思えませんでしょう。」となにやら不思議で不穏な台詞を口にして去っていく。”私”は、「それが本当で、なにか不都合がありますか」と応える。 

  君知るや 山の道
立ち渡る霧のうちに 騾馬は道をたずねて
嘶きつつ彷徨い 広き洞の中には
いと年経たる龍の ところ得顔に棲まい
行き帰る白波の 岩より岩を伝う
彼の懐かしき山の道を
  彼方へ
君と共に行かまし


梨木さんの作中では、” 年経たる龍”に焦点を当てるためだろうか、ミニヨンの歌の第三連を、こんなふうに訳している。

・・・”きみ知るや南の国。レモンの花咲き・・・、”と高々に楽園の憧憬をうたった筈の第一連から、この第三連までのたった十数行の間に、憧憬が、なにやら嘆息と追憶の場に変わってしまったような気がするというのは、我ながら単純な感想である。単純というより短慮というべきか。ともかく、「檸檬」を読みながらふとそんなことを考えてしまったのである。



にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ



☆614. 神奈川県立近代美術館 鎌倉館 (美術館の階段)

○鎌倉P1160122


鎌倉館は、鶴岡八幡宮境内にある。往きには境内の森のリスを眺め、帰路には八幡宮に立ちより鳩の鈴守りをもとめる。これで駅前でハトサブローと小鯵寿司を買うのを忘れなければ、土産は完璧である。おっと、小町通りに戻って鏑木清方記念美術館にも行かなければ。時間があれば江ノ電に乗って海側へ出て鳶にハンバーガーを横取りされに行くのもよし、山側の切り通しを抜けて極楽寺や建長寺をめぐるのもよし。さらに澁澤邸を眺めたり文学館で往年の文士たちの肖像を見るのもよい。ああなんて鎌倉って楽しいんだろう。最後になったが、神奈川県立近代美術館 鎌倉館の建物は、坂倉準三の設計。エントランスの階段がチャーミングである。

(神奈川県立近代美術館 鎌倉館、鎌倉市)






414. エリナー・ファージョン レモン色の子犬 (フルーツ小説百選)

「レモン色の子犬」(1955)は、短篇集『ムギの王さま』に所収。木こりと王女の恋ものがたりである。ファージョンの数ある作品のなかでも、大好きな一篇。正真正銘の五つ星のおはなしである。
・・・引用部は、木こりの少年ジョーが王女のねこをみつけたほうびに、王さまから何がほしいかと問われる場面。ここに登場する子犬の耳の色がレモン色なのである。

ジョーは、王女さまがほしいといいたかった。王女さまなら、ジョーのクランバー種の子犬とほんとによくつりあったのだ。王女さまの髪は、ちょうど子犬の耳の色とおなじだったし、王女さまのやわらかい茶色の目は、スパニエルにもひけをとらず、とけるようにショーを見ていた。けれども、もちろん、王女さまは話にならなかった。だから、ジョーは答えた。
「あっしに、王さまの木こりをつとめさせていただきとうございます。」
(石井桃子訳)


この短編集の原題は、『THE LITTLE BOOKROOM』という。
ファージョンは、子供のころ学校へ行かず雑多な本がいっぱいつまった「本の小部屋」にこもって本を読んでいたそうだ。そして作家となったファージョンが 書いたのも、雑多でとりとめもなくてそして小部屋にこもっていつまでも読みふけりたくなるような、そんな本ばかりだ。
でも、彼女の恋ものがたりは、ちょっと特別である。こんなにステキな物語を読んだよと、みんなにふれてまわりたくなる。「レモン色の子犬」は、そんな作品だと思う。



にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ



☆613. 横浜美術館 (美術館の階段)

横浜美術館、なんだか印象が乏しい(失礼)。企画展も、コレクション展も、小粒なものが多くて地味である。逆に言うと、大美術館からの借物企画に頼らないという姿勢を貫いているということなのかもしれない。そういう視点で見ると、シュルレアリスムや現代美術を中心とした自らの収蔵品を活かす形で、独自性の強い企画展を打ち出していこうという姿勢が感じられなくもない。いやしかし、今日はそんなわたしの舌足らずの感想を披露するのが目的ではない。問題は”階段”なのであるから。


○横浜P1200294


横浜美術館を2階正面から入ると、いきなり広い吹き抜けのエントランスホールがあって、そこがそのままグランドギャラリーになっている。吹き抜け構造に付きものの階段の姿も美しい。この美術館の特徴は、もうこれにつきると言っても良いと思うのだがどうだろうか。
企画展でも、コレクション展でも、このスペースを巧く使って作品展示されているのが面白い。階段の横の小さなスペースに現代彫刻の作品がこそりと並べられていたりするのも愉しいのである。


デルヴォー、階段1948  
(ポール・デルヴォー、「階段」1948)


そしてもちろん、階段ファンにとっては、デルヴォーの「階段」という大物(油彩、149×120㎝)を見せてもらえるだけでありがたい。さらに”写真”好きには、アレクサンドル・ロトチェンコの有名な『階段』シリーズの作品もある。・・なんだかんだいっても、これだけあれば充分という気がしてきた。やいやいこれで何が不足なんだい?! というY美術館の声が聞こえるような気もしてくるのである。



にほんブログ村 美術ブログへ



413. ヴァン・ダイン グレイシー・アレン殺人事件 (フルーツ小説百選)

the gracie allenmurder case


“ヴァンス”は、いままでに参与したどの事件よりも、この事件が気に入っていたという。
それは、”婉然とシトロンの香りを発散させて”登場してくるこの少女と、どうやら関係がありそうなのである。

「あなたが、新しい服をおつけになるときは、いまと同じ香水を使っていただきたいですね。なんだか、ちょうど、春のようで   ロングフェローが《路傍の宿》のなかでたとえているように《シトロンとオレンジの木のかぐわしき香り》がします」
「おお、ロングフェローに、そんな詩がございますの」
(井上勇訳)


「グレイシー・アレン殺人事件」(1938)は、ヴァン・ダインの第十一作、
ファイロ・ヴァンスものの一篇である。
・・・いつものように事件は鮮やかに解決に向かうと思いきや、探偵は謎にとまどい、手も足も出ない状況に陥りそうになる。そんなヴァンスを、このシトロンの香りの少女は、いかに光明にみちびいてくれるのか。それが本篇のよみどころなのである。



にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ



被災地の学生を応援しよう!
プロフィール

jacksbeans

Author:jacksbeans
ようこそ!
記事のカテゴリ区分は、
①自転車、②図書室、③青、④メキシコ、⑤フルーツ、⑥階段、⑦画家、⑧スープ、⑨音楽、⑩綠、です



にほんブログ村 本ブログへ

ブログ村ランキング参加中、
クリックしていただけると幸いです。

カテゴリ
月別アーカイブ
12  09  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04 
検索フォーム
最新コメント
最新記事
PVアクセスランキング/海外文学
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。