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☆617.横須賀美術館 (美術館の階段)

よ○○○横須賀スロープ、P1020900

横須賀美術館は、不幸な美術館である。
観音崎公園に立つ建物は、晴れた日には海と空に染まり、青く輝く姿を見せてくれる。
しかし、そもそも建設反対運動を押し切るような形で2007年にスタートしたこの美術館は、現在も市民には赤字続きのハコものは不必要だとそっぽを向かれ、絵の寄贈家側とはトラブルの果てに作品の返還を求められるというような、騒動が続いているという。さらに、苦肉の策としてハコ貸しに転じたところ、電通企画の「ラルクアンシエル展」が大ヒットするという皮肉な顛末。
・・横須賀湾を見下すこの見事な眺望も、階段ファンをも惑わす屋上の美しいスロープも、そんな騒動が続いていることを考えると、なにやら空しく感じてしまうのでありました。


 
よ○○○廣村正彰、ピクトグラム、横須賀美術館

しかし、確かなものも、ここにはある。
廣村正彰さんが手がけた館内の「VIデザイン」である。
この階段のピクトグラフのみごとなこと!



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420. シュトルム 林檎の熟するとき (フルーツ小説百選)

「林檎の熟するとき」(1856)は、読み込む必要がない。感じ取る必要がない。ただ文章を読み続けていると、いつのまにかこころの中にはいってくる。心に響いてくる。少し、笑わせてくれる。そんな作品である。・・・シュトルム、39歳の作品。邦訳は、岩波文庫版の短編集『みずうみ』に所収。

夜もふけていた。庭の板塀に沿うて並んでいる菩提樹のうしろから、いましも月が差し昇ったところである。月の光は果樹の梢をとおして、向うの家の裏壁に差し、それから、下の、石だたみの狭い中庭のところまで落ちている。中庭は、格子垣で庭から仕切られているのである。低い窓にかかっている白いカーテンが、いっぱいに月の光を浴びている。ときどき小さな手が伸びて、そっとカーテンを引きあける気配である。一度なぞは、少女の姿が窓しきいに寄りかかりさえした。彼女は、白いネッカチーフをあごの下で結んでいて、女持ちの小さな時計を月光にあてて見ている。指針(はり)の動きをじっと見ているらしい。そとの教会の塔から、ちょうど四十五分の時が打った。
(関泰祐訳)


引用したのは、作品冒頭の一節。この月の光の美しいこと!
わたしはこの”出だし”が大好きである。古めかしい訳文もこの情景にはぴったりだと思うのだが、どうか。
・・・そんな感想はともかく、ここから美しくも可笑しな物語は進行する。
登場するのは、ひとりの少女、ひとりの少年、もうひとりの男と、そして林檎、・・・仕掛けはこれきり、他には秋の夜が背景に広がるだけ。それだけの仕掛けでこの物語には充分である。舞台化しても美術さんも大道具さんも楽チンだろう。ほとんど手は掛らない。見る方も簡単。ストーリーは単純にして簡潔。なにしろ青春物語だから。一幕ですぐに終わる。
小説だと、ざっと6~7頁。読み込む必要がない。感じ取る必要がない。ただ文章を読み続けていると、いつのまにかこころの中にはいってくる。心に響いてくる。少し、笑わせてくれる。そんな作品である。



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419. アン・モロウ・リンドバーグ 海からの贈物

アン・モロウ・リンドバーグの「海からの贈物」(1955)は、ひとりの女性が一時的に仕事や家族から離れ、海辺の別荘で休暇を過ごした際に考えたことを綴った本である。
ただそれだけの本であるのに、なんでこんなに生き生きとしたみずみずしい言葉がそのまま50年余の時間を越えてわたしたちのこころに届くのか。響くのか。

我々は皆、自分一人だけ、愛されたい。「林檎の木の下で、私の他の誰とも一緒に座っちゃいや」という古い歌の文句の通りである。そしてこれは、W・H・オーデンが言っているように、人間というものが持っている一つの根本的な欠陥なのかもしれない。
  どの女も、男も、
  持って生まれた迷いから、
  適えられないことに心を焦がし、
  普遍的な愛だけではなくて、
  自分だけが愛されることを望む。
 しかしこれは、それほど罪なことだろうか。私はこの句について或るインド人の哲学者と話をしていて、非常にいいことを聞いた。「自分だけが愛されることを望むのは構わないのですよ」とその哲学者は言った。「二人のものが愛し合うというのが愛の本質で、その中に他のものが入ってくる余地はないのですから。ただ、それが間違っているのは時間的な立場から見た場合で、いつまでも自分だけが愛されることを望んではならないのです」というのは、我々は、「二つとないもの」  二つとない恋愛や、相手や、母親や、安定に執着するのみならず、その「二つとないもの」が恒久的で、いつもそこにあることを望むのである。つまり、自分だけが愛されることの継続を望むことが、私には人間の「持って生まれた迷い」に思える。なぜなら、或る友達が私と同じような話をしていた時に言った通り、「二つとないものなどはなくて、二つとない瞬間があるだけ」なのである。
二つとない瞬間は確かにある。そして一時的にせよ、そういう瞬間を取り戻すことも決して間違ってはいない。マフィンとマーマレードが出ているテーブルで向かい合うのも、子供に乳をやるのも、もっと後になって、子供と浜辺で駆けっこをするのも、一緒に貝殻を探すのも、栗の実を磨くのも、大事にしているものを分け合うのも、  そういう二人だけの瞬間には凡て意味があって、ただそれが恒久的なものではないだけなのである。
(吉田健一訳)


ほんとうならこれは言葉の力だ。文章の力だ。本の力だ。そう書きたいところなのであるが。
これに限ってはそうではないと思う。では何かといえば、思索の力だと思うのである。そのことを思い知らされる本。20世紀央に飛行家であり作家であったひとりの女性が、人間について生活について世界について、こんなにも静かに深く明晰に思いをめぐらせていたことに、瞠目させられてしまう本である。



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