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432. モーリス・センダックの絵による"白雪姫" (フルーツ小説百選)

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"リンゴ"から、白雪姫を連想するのは、当たり前すぎてそれもまた面白いかもしれない。今日は、ちょっとだけ風変わりな白雪姫を紹介して記事にしようと思うのである。

王子はお供の者たちに柩をかつがせてゆきましたが、ひょんなことに、担ぎ手たちが途中で藪根っこにつまずいてね。柩がぐらっとゆれ、そのはずみに白雪姫ののどにつまっていた毒リンゴのかけらがひょいととびだしたのです。姫はたちまちぱっちりと目をひらき、柩のふたをもちあげて起きだしました。もとのぴんぴんしたすがたでした。
「あれえ、ここはどこかしらん」
「わたしのそばだよ」王子はうれしくてたまりません。
(グリム「白雪姫」、矢川澄子訳)


モーリス・センダックが選んだグリム童話が27篇、そのひとつひとつに自身で絵をつけて本にしている。これがなかなかに面白い。もちろん"グリム"ではあるのだが、同時に、センダックの世界がそこに広がっている。ありふれた白雪姫の物語も、センダックの絵がくわわることで、別の意味が加わる。まるで、パラレル・ワールドのグリムである。そこがどうにも楽しくてたまらないのである。矢川さんの訳も絶品。・・・しかし、邦訳は、残念ながら絶版である。(『ねずの木 その、まわりにもグリムのお話いろいろ』、1986、福音館書店)



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431. トーベ・ヤンソン ムーミン谷の仲間たち (フルーツ小説百選)

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ムーミン屋敷にはりんごの木がある。
秋には、家族みんなでりんごの実を収穫し、ジャムを作る。パンケーキにつけて食べるとおいしいらしい。
パパは、りんご酒もつくる。秋に仕込むと夏祭りのころにはとてもおいしくなっているらしい。
ママは、りんごの木の絵を描く。花と実がいっぱいついたりんごの木をえがく。さびしいときは、絵の中のりんごの木に頭をよせて眠るといいらしい。



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627. 室生山上公園芸術の森

○室生5 ○室生8

「室生山上公園芸術の森」は、"山の上のモニュメント"を中心に設計された野外ミュージアムである。彫刻家のダニ・カラヴァンによる作品を中心に構成されている。
上の画像は「ピラミッドの島」、下の画像は「太陽の塔の島」である。


○室生

「太陽の塔」、これを"階段"と呼ぶのは乱暴だろうか。
古来の太陽信仰に基づき"太陽の道"の軸線上に建てられたというこの塔を見ていると、思わずこれを駆けのぼりたくなる。だから・・、
だからやはりこれは、"階段"だよね。


(室生山上公園芸術の森、奈良県宇陀市)



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626.ロンドン・自然史博物館 (美術館の階段)

○自然史、LONDON 1346

この建物の美しさは、なんといっても、内外装に使われている淡黄色と青色のテラコッタ製のパネルに依るものであると思う。青は水色に近いもので、この色あいがなんとも魅力的である。


LONDON 1348b

建物の中には、中央ホールの巨大なディプロドクスの全身骨格(複製)や、ジョゼフ・バンクスの植物図譜や、樹齢1300年のジャイアント・セコイアの年輪など、見どころ満載であるのはもちろんだが、その前にこのテラコッタの美しさに見とれてしまうと危険である。それだけで見学時間を失ってしまうという羽目に陥いることになりかねないのである。


○自然史LONDON 1363

いやしかし、”階段”に見るべきものがないというわけではない。
ウォータハウスが設計し、1880年に完成したロマネスク様式のこの博物館には、エントランスの重厚な階段、中央ホールの優雅な大階段・・、みごとな階段が揃っている。


○自然史、LONDON 1358

特に、このアーチの形状のみごとさ!
一瞬、後光が差したかと思えるほどの美しさでありました。実際には、ただの逆光写真であったというわけですが。


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430.島崎藤村 二人の兄弟 (フルーツ小説百選)

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近くの公園へ行って、エノキの実を拾ってきた。
ほんの小さな実である。ちいさな実であるが、熟すときれいな深いオレンジ色になる。葉はぎりぎりまで意地をはってなかなか紅葉しないが、いざとなると美しい黄色になる。おまけに、この実は食べると旨いらしいのである。

皆さんは榎木の実を拾ったことがありますか。あの実の落ちて居る木の下へ行ったことがありますか。あの香ばしい木の実を集めたり食べたりして遊んだことがありますか。
そろそろあの榎木の実が落ちる時分でした。二人の兄弟はそれを拾うのを楽みにして、まだあの実が青くて食べられない時分から、早く紅くなれ早く紅くなれと言って待って居ました。
(第一章 榎木の実)


都合のよいことに、手許にはエノキの実が登場する物語もある。雑誌『赤い鳥』の創刊号に掲載された島崎藤村の「二人の兄弟」(1918)という一篇である。
わたしはこの短くて一見なんの変哲もない童話が大好きである。途中までは平板でありふれた子ども向けの教訓ばなしかと思わせておいて、ひょいと付けてくれる”おまけ”の素晴らしいこと。モノクロ映画に突然挿入されたパートカラー・シーンのように、あざやかに目に映るおまけの一行なのでありました。



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429.夏目漱石 夢十夜 (フルーツ小説百選)

「夢十夜」(1908)は、ひとつひとつのはなしがとても短いのがいい。
疲れないから年長さん向きである。
不思議で奇妙なはなしであるので、年少さんにもいいかもしれない。
しかし、なんど読んでも、漱石はなんて奇妙な物語を書いたのだろう。

 庄太郎が女に攫われてから七日目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと、床に就いていると云って健さんが知らせに来た。
 庄太郎は町内一の好男子で、至極善良な正直者である。ただ一つの道楽がある。パナマの帽子を被ってを、夕方になると水菓子屋の店先へ腰をかけて、往来の女の顔を眺めている。そうしてしきりに感心している。そのほかにはこれと云うほどの特色もない。
 あまり女が通らない時は、往来を見ないで水菓子を見ている。水菓子にはいろいろある。水蜜桃や、林檎や、枇杷や、バナナを奇麗に籠に盛って、すぐ見舞物に持って行けるように二列に並べてある。庄太郎はこの籠を見ては奇麗だと云っている。商売をするなら水菓子屋に限ると云っている。そのくせ自分はパナマの帽子を被ってぶらぶら遊んでいる。
 この色がいいと云って、夏蜜柑などを品評する事もある。けれども、かつて銭をを出して水菓子を買った事がない。ただでは無論食わない。色ばかり賞めている。
(第十夜、冒頭)


第十夜も充分におかしなはなしである。
パナマ帽を被って水菓子屋の店先を女性が通って行くのを眺めるなどと洒落ていたら、或る日、とんでもないめにあってしまう。女性ばかり見てるんじゃねえとか、女性に 誘われてついていくんじゃないよとか、たぶんそんな話ではないはずだ。豚に舐められるというのも単純なメタファーではないはずだ。ではなんなのかといわれる と困るのだが。
たぶん、たぶんだけど、パナマ帽など被るんじゃなかったなと、そんな話ではないか。あんたもパナマ帽なんか欲しがるんじゃないよと、そんなはなし。



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428.樋口一葉 にごりえ (フルーツ小説百選)

岩波文庫では、『にごりえ/たけくらべ』の二篇が一冊に収められている。表紙の絵は、清方の「たけくらべの美登利」である。そのせいでもないが、二篇を比べると読んだ回数は圧倒的に「たけくらべ」が多い。いつ読んでも、何回よんでも、こころがふんわりとする。
それに比べると「にごりえ」は、すこし読み辛い。遊郭のまちで暮らす私娼のはなしである。こころに重いものを抱えている女のはなしである。そのこともあってかなり読むのがつらい。そんなことを言うなら、たけくらべの方もほんとうは哀切なはなしなのであるが。でもしかし、やっぱりにごりえの方が読むのがつらいのはなぜだろう。

結城さん貴君に隱くしたとて仕方がないから申ますが町内で少しは巾もあつた蒲團やの源七といふ人、久しい馴染でござんしたけれど今は見るかげもなく貧乏し て八百屋の裏の小さな家にまい/\つぶろの樣になつて居まする、女房もあり子供もあり、私がやうな者に逢ひに來る歳ではなけれど、縁があるか未だに折ふし 何の彼のといつて、今も下坐敷へ來たのでござんせう、何も今さら突出すといふ譯ではないけれど逢つては色々面倒な事もあり、寄らず障らず歸した方が好いの でござんす、 (中略)
貴君には聞いて頂かうと此間から思ひました、だけれども今夜はいけませぬ、何故/\、何故でもいけませぬ、私が我まゝ故、申まいと思ふ時は何うしても嫌やでござんすとて、ついと立つて椽がはへ出るに、雲なき空の月かげ涼しく、見おろす町にからころと駒下駄の音さして行かふ人のかげ分明(あきらか)なり、結城さんと呼ぶに、何だとて傍へゆけば、まあ此處へお座りなさいと手を取りて、あの水菓子屋で桃を買ふ子がござんしよ、可愛らしき四つ計の、彼子が先刻の人のでござんす、あの小さな子心にもよく/\憎くいと思ふと見えて私の事をば鬼々といひまする、まあ其樣な惡者に見えまするかとて、空を見あげてホツと息をつくさま、堪へかねたる樣子は五音の調子にあらはれぬ。


“水菓子屋”は、この時代の小説を読むとよくあらわれる。すぐに思い出すのは漱石の「夢十夜」であるが、あちらはファンタジーのような話で、水菓子屋の店先に腰かけている男はぼんやりとした道楽者で、どうみても哀切とはほど遠い。しかし、こちらはいけない。この二階から見下ろす場景は、水菓子屋で桃を買う少年を見降ろしている遊女のすがたは、どうも哀しくてやりきれない。だから、つい、「たけくらべ」の方を読みたくなるのだろうか。


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427.澁澤龍彦 空飛ぶ大納言 (フルーツ小説百選)

「空飛ぶ大納言」(1979)の舞台は11世紀から12世紀の日本、主人公は藤原道長の後裔である大納言成通卿、彼は稀代の蹴鞠の名人であった。

「わしは飛びたいのじゃ。鞠と一つになって、宙に舞いあがりたいのじゃ。」
自制したつもりなのに、思わず声が大きくなった。春陽花はしかし、左右にひかえた二人の仲間と目を見交わすと、意味ありげな笑いを浮かべて、だまってうなずいた。(中略)
「飛ぶのは簡単、なんでもございませぬ。夢のなかでは、だれしもが飛んでいるではございませぬか。」
「なるほど、夢で飛ぶ。そういえばそうじゃ。わしも子供の時分には、よく空を飛ぶ夢をみたものだが、どうも近ごろはとんとみなくなったようじゃ。それにしても、夢で飛ぶのでは飛んだとしても仕方があるまい。」
「いや、必ずしもそうとばかりは申せませぬ。夢というものを馬鹿にしたもうな。そもそも、この鞠というのは、じつは夢の木の果実だということにお気がつきませぬか。」


この鞠は“夢の木の果実”である、という記述に、唖然としない者がいるだろうか。
わたしなど、唖然とするばかりでなく、驚愕し、戦慄し、魅了されたあげくに、思わず本を投げ出した。この澁澤の短編は、この一行をもって、蓋し名作と呼ばれるべきだろう、呼ばれるべきだろう、呼ばれるべきだろう・・、



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426. 山尾悠子 帰還 (フルーツ小説百選)

先に「白い果実」という本について記事を書いた。山尾悠子が共訳者として記されているから読んだというようなことを書いた。それでは・・、ということでもないが、国書刊行会版の「山尾悠子作品集成」を取り出してきて、ページを開いている。読んでいるのは、“童話・支那風小夜曲集”と名された掌編のひとつ、『帰還』(1980)である。

旅行のために長く留守をしていた支那の大陸が雲海の下に見えてきた時、龍はやはり嬉しかった。
まだ年若いこの龍は、かつて広い世界に憧れたのだった。貿易風に乗って海を渡り、大陸から大陸へと何年も漂泊を続け、波斯の満月も西班牙に降る星も見た。でも今は、揚子江に落ちる半輪の月影を、峩眉山の北に登る麒麟座の星々を、久しぶりにこころゆくまで眺めたかった。黄海から山東半島の突端をまわって夜の渤海へと入っていきながら、龍はまずどこへ降りようかと考えた。黒雲を巻き青金の鱗をざわめかせて翔る龍の姿を見た船乗りたちは、あわてて灯を消してなりをひそめた。鉄板のように鳴りひびく龍の鱗の一枚一枚は、触れあうたびに電光を発して稲妻のように海面を光(て)らしたのだ。海岸線を越えて上陸した龍は、やがて行く手に懐かしい古い都の燈火を見た。
まずあそこに降りることにしよう。(中略)
人間の姿になって北京の街筋に入っていくと、地上には良質の支那墨のような闇がなま暖かくよどんでいた。龍は花櫚(かりん)の砂糖づけを買って、食べながら通りから通りへと歩いた。(中略)
そうだ、女に逢いに行こう。久しぶりに逢って、みやげ話などもしてやろう。(中略)

龍、龍、おまえなの?
そうだ、龍だよ、帰ってきたよ。
火雲と鳳凰を縫いとった女の衣が、龍の前でゆれた。灯を消して、二人は頬をよせて踊った。(中略)
龍、おまえの息は花櫚の実のにおいがするよ。


作家自身によれば、この掌編集は、“まず辞書を用意して、支那趣味の言葉を片っ端からノートに書きだして。”というふうに書かれたものだという。“牡丹とか翡翠とか物品名称を大量に使うだけで一つの世界が出来るでしょう”、というのだが。   果たして、そうか?本当にそんなふうにして書かれたのだろうか?
言葉の用いかた、文体、レトリックのみごとさ、それが山尾悠子の作品の魅力だということは言うまでもないのだが、同時に、“物品名称を大量に使うだけで一つの世界が出来るでしょう”というのは、作家が確信犯的に書いた”嘘“だとも思うのだが、どうだろうか。 ああ、秋は疑惑の季節だというが、ほんとうだな^^。


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☆625.伊豆の長八美術館 (美術館の階段)

○伊豆長八P1210206


細野不二彦の「ギャラリー・フェイク」、その⑬巻に、「左官魂」という話がある。
藤田の住むアパートに、年取った左官職人が住んでいて、実は「鏝絵」の名人だった。最後にアパートの壁に、とてもすばらしい竜の絵を描き上げるという話。短くて、何のことはない話なのだが、とても大好きな一作である。


○伊豆長八2P1210184

そして、それ以来、ちょっと「鏝絵」のことが気になっていた。島根(石州)とか、大分(安心院)とか、伊豆(松崎)とか、三浦(浦賀)とかまで、出かけていけば、古い、美しい、幕末から明治時代の鏝絵が残っていて、見ることができるらしいのだが、どれも、いかにも遠い! 
だから、ようやく「伊豆の長八美術館」や「長八記念館」を見ることができるとなって、それはもううきうき気分で出かけて行ったのである。


○伊豆長八P1210213

そういえば、鏝絵は日本のフレスコ画のようなものである。何も日本独自のものではないというわけだ。ミケランジェロの『最後の審判』や、ジョットやティエポロの天井画などにも繋がるってことだから面白い。いやいやそんな比較話しを持ち出さずとも、実際に見た入江長八の鏝絵は、どれもためいきが出るほどすばらしいものでありました。

(伊豆の長八美術館、静岡県松崎町)



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