スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

442. サキ マルメロの木 (フルーツ小説百選)

Cotán
(フアン・サンチェス・コタン『マルメロの実、キャベツ、メロン、胡瓜』、1602)


静物画とは、ただ静かで動かないものというだけではなく、死んでいるものというような意味が含まれていると、とらえればよいのだそうだ。
コタンのこの絵を見ると、そのことが少しわかるような気がして震えてしまうかもしれない。
しかし、この絵に驚かされていては間違ってしまうかもしれない。マルメロはとても美味しい果実で、さらにジャムにすると格別であるらしい。また、宮沢賢治によれば、マルメロは歌が上手だという。

「わたくし、いまベチイ・マレンおばさんに会って来ましたわ」とヴェラは伯母のビバリイ・カンブル夫人に云った。「家賃がはらえないで困ってるようですわ。」(中略)
「わたしはもう金輪際助けてはやらないよ。ほんとうなら、もっと小さい、家賃の安い家に引っ越さなきゃならないんだよ。(中略)」
「でも、どこに行ったって、ほかじゃあんな立派なお庭はついていませんわ」とヴェラは反対した。「それに、庭の隅には、あんな見事なマルメロの木があるんですもの。(中略)ええ、あのお庭と別れて引っ越すなんて、おばさんにはできっこありませんわ。」
(「マルメロの木」、中村能三訳、新潮文庫版『サキ短編集』に所収)


サキ(1870-1916)の掌編を、さらに要約して紹介するなどという芸当はわたしには不可能である。ただ、ヴェラのみごとな策計でマルメロの木の家は守られるかもしれない、ということだけは書いておいた方がよさそうだと思う。めでたし。



にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ




スポンサーサイト

☆628. プラド美術館 (美術館の階段)

○Prado Escalera1


プラド美術館、館内は広大で収蔵品は無尽である。エル・グレコ、ベラスケス、そしてゴヤ、この三人の作品を見ているだけで日が暮れる。そうすると、ボスの快楽の園もムリーリョの聖母像も見ている時間が無いというようなことになる。途方に暮れてしまう。仕方がないので、BARにでもでかけるかということになる。わたしたちのスペイン旅行はそんなふうにして終わってしまうのである。



ゴヤ、Boys Picking Fruit  
(Goya、「Boys Picking Fruit」、1778)


上の画像は、宮廷画家になる前のゴヤが描いた「果物をとる少年たち」という絵。
プラドのコレクションの中でも、大好きな一枚である。
・・・一人の少年が、仲間の少年の背中を”階段代わり"(steps)に使って、木の上のフルーツを取っている。 なんと、”階段”と”フルーツ”が一枚の絵に含まれている! わたしのブログにはもってこいの作品なのでありました。



にほんブログ村 美術ブログへ





441. ロバート・クーヴァー 老ピノッキオ、ヴェネツィアに帰る

Pinocchio.jpg


「老ピノッキオ、ヴェネツィアに帰る」(1991)は、”ピノッキオの冒険”の後日譚とでもいうべき物語である。いい子になった褒美として人間になったピノッキオは、学者となり、西洋文化と思想の研究で業績を上げたのち、百歳を越えて故郷ヴェネツィアに戻ってきた。ここから、物語はスタートする。

もちろん酔っ払うとろくなことはない。とくに二、三杯引っかけてほろ酔い気分になってくると、彼の独り言が一番ひどくなるのであったが、この場、このひとときの魔法の虜となった彼は、この時間を引き延ばし、できることならそのめくるめく魔法の核心に迫りたいと思う。そのために、まさにそのためにこそ自分は帰ってきたのだ。そう考えながら、彼は淡い色のグラッパをすする。どことなく冬梨とバニラを思わせる、茎のような香り、つんとくる植物のような風味。これは彼の父が大好きだった飲み物だ。親父はこれを自分で作っていた。長い年月を経て黒ずんだ古いオークの樽に入れ、階段の下でずっと寝かせておいた。そして毎週、グラッパが大好きで、鼻がサクランボのように真っ赤なためサクランボ親方と呼ばれていた男が(どうしても本名が思い出せないが、そんなことはどうでもよい)、焼き菓子や籠に入れたイチジクや少しばかりの薪など、ちょっとしたものを持ってグラッパ目当てにやって来るのだが、親父に誘われるままに中に入り、親父がもったいぶって「とっときのやつを一杯やるかい」と切り出すのを待って、いやいや、今日は失敬するよと言いながら樽のほうに歩いて行くのだった。(中略)
それから、グラッパへの旅が頻繁になってくると、いつの間にかチェス盤の上の駒が自動的に動いているかのような妙な動き方をするようになったり、片方の手番に二度カードがめくられるようになり、冗談は侮辱に、言葉のやり取りは小突き合い、殴り合いとなり、やがて部屋はめちゃくちゃ、二人は傷だらけ、耳や鼻は歯型だらけ、ボタンは弾け飛び、鬘は掻きむしられ、そして廃墟となった部屋のどこからか親父の声が響くのだ。「もう一杯どうだい、サクランボ」
(斎藤兆史・上岡伸雄訳)


引用したのは、酒場「赤エビ亭」でピノッキオがワインやグラッパを飲み酔っ払っていく場面。
思い起こせばこの酒場は、昔々狐と猫に騙されて連れてこられた場所でもあった。ああ彼の運命やいかに?  ・・翻訳小説としては、2012年・ベスト級の面白さだと思う。



にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ




440. カルロス・フエンテス 二人のエレーナ (フルーツ小説百選)

「二人のエレーナ」は、短編集『盲人の歌』(1964)に、邦訳は、集英社文庫版のアンソロジー『ラテンアメリカ五人集』に収録されている。フェンテス(1928~)の作品は、メキシコの作家の中では、比較的数多く訳出されているのであるが、中でも、このなにげない短編がわたしは大好きである。"果物"のにおいが立ちのぼる官能的な情景に魅せられるのである。

今、ぼくは妻の実家へ来ている。登場人物は、ぼく、妻のエレーナ、妻の両親のドン・ホセとドニャ・エレーナの四人である。四人は、食事が終わって、居間に移ったところ。ドン・ホセはやがてひとり書斎へ引き上げ、エレーナはぼくの膝を枕に寝かかっている。残った二人の会話が始まる。

ドン・ホセは勝ち誇ったようにエレーナを、ぼくを、自分の妻を眺める。エレーナの母、ドニャ・エレーナは、しぼみかけた会話に救いの手をさしのべようとして、自分のこの一週間の活動を語る。ぼくはローズウッド色のブロケード張りの家具や中国の壺、薄絹のカーテン、ビクーニャのラグを眺める。四角いこの家の大きな窓の向こうでは崖のユーカリがざわめいている。生クリームがたっぷりかかったエンチラーダをイヒニオが給仕すると、ドン・ホセはにっこり笑い、小さな緑の目にはまるで愛国者とでもいえそうな満足感があふれる。九月十五日の独立記念日に大統領が国旗を振るとき、彼が目にそんな満足感を浮かべているのを見たことがある。とはいえ、専用のジュークボックスを前に葉巻をふかしながらボレロを聴いているとき、彼をほろりとさせるような満足感とは違っている。そのときはもっと湿っぽいのだ。ぼくの視線はドニャ・エレーナの蒼白い手に留まる。彼女はロールパンの屑をいじりながら、このまえ会ったときから自分を忙しくしていた用事を残らず、けだるそうに並べたてている。(中略)
ぼくは視線を上げた。ドニャ・エレーナがぼくを見つめている。彼女はすぐに目を伏せ、居間でコーヒーを飲みましょ、と言った。ドン・ホセは、わしは失礼する、と言って、書斎に向かった。そこには二十センターボの代用コインを投入口に入れるとお気に入りのレコードをかけてくれる彼専用のジュークボックスがある。ぼくたちは坐ってコーヒーを飲みはじめた。(中略)
「二十二で結婚したのよ。メキシコ市で暮らせばすぐ、ベラクルス訛りなんて失くなるわ。あなたと知り合ったころ、わたしはもういい年になってた」
「あなたとエレーナは姉妹みたいだ、みんな、そう言ってます」
彼女の唇は薄いが攻撃的だった。「とんでもない。いまも、メキシコ湾の嵐の夜を思いだしていたの。太陽は見えなくなるのを嫌がって、おわかりかしら、嵐といっしょになってしまう。するとなにもかもがとっても緑っぽい、とっても蒼白い光を浴びることになる。そして、人は雨戸を閉めた部屋で息苦しい思いをしながら、雨がやむのを待つの。熱帯では雨が降っても涼しくはならない。なおさら蒸し暑くなるだけ。嵐になるたびにどうして召使たちが雨戸を閉めないといけないのか、わたしにはそのわけがわからない。窓を開けっ放しにしたまま嵐をやり過ごせたら、きっと素敵でしょうに」
ぼくは煙草に火をつけた。「そうですね。とても強いにおいが立ちのぼりますね。大地がにおいを放つんです。煙草やコーヒー、熟れた果物の・・・・・・」
「それに寝室のにおいも」。ドニャ・エレーナは目を閉じた。
「え?」
(安藤哲行訳)


引用が長くなった。でも仕方がなかった。引用は、短く、ネタばれにならないように、そしてこの短編の味わいの深さを感じてもらうのにいちばんいい部分をと考えたのだが、これがせいいっぱいだった。少し長いが、このフエンテスの作品の、不思議な味わいを感じてみてほしいのである。



にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ





439. オレンジガール/ダーウィンと出会った夏 (フルーツ小説百選)

二冊のYA小説を読んだ。「オレンジガール」(2003)と、「ダーウィンと出会った夏」(2009)である。どちらも極めて正統なヤングアダルト小説で、ちょっとこころをゆさぶられた。おまけに、どちらの作品にも”果物”が重要なアイテムとして登場するのである。

「オレンジガール」(2003)は、先に「ソフィの世界」を書いたヨースタイン・ゴルデルの新作。物語の舞台は、現在のノルウェー、主人公は15歳の少年。この年の冬、彼はいかに”天文学者”をめざすことになったのか。

父は十一年前に死んだ。ぼくがまだ四歳のときだ。だから、その父から便りが届くなんて、思ってもみなかった。(中略)
父の死後、祖父母が母の手伝いにやってきた。遺品のすべてを整理するために。でも、ある重要な遺品だけは、このときは出てこなかった。それは、父が再入院するまえに書いた長い物語だ。(中略)
とにかく、父はこの「オレンジガール」の長い物語をぜんぶぼくのために書いた。ぼくがその内容を理解できるほどじゅうぶんに成長したときに読むようにと、これを書き残した。つまり、父は未来へ向かって手紙を書いたんだ。(中略)
ぼくの青い瞳は父からの遺伝だ。髪はブロンドで、肌はかなり白い。でも、夏にはちゃんと黒くなる。ゲオルグ・レードの長所   自分たちが銀河系のひとつの惑星に住んでいることを、ちゃんと認識している人たちの部類に属していること。短所   典型的な短所だと思えるものはなにもない。自分では、もう少し過激になってもいいとさえ思っている。好きなことば   「ありがとう、両方ともいただきます」
(猪苗代英徳訳)


これは、少年の物語である。では”オレンジガール”とは誰か? それについては詳しく書けないのが残念である。その謎を知ることが、この本を読むことのすべてであるかもしれないと書くと、いやみな勿体ぶりやだと誹られることになるだろうか。それでもこれだけは書けないのである。


「ダーウィンと出会った夏」(2009) は、ジャクリーン・ケリーのデビュー作。物語の舞台は1989年のアメリカ、主人公はテキサス州の田舎町に住む11歳の少女。この年の夏、彼女はいかに”博物学者”になったか。

うちに着くと、みんながわくわくしながら荷物をおろした。その騒がしさに耐えられず、わたしは川にむかって駆けだした。川岸で、帽子とエプロンとワンピースを脱ぎすてると、川に飛びこみ、ここをすみかにしているオタマジャクシやカメを震えあがらせた。あの図書館員のせいで一日がだいなしになったから、ほかのだれか   なにか   の一日もだいなしにしてやろうと思っていた。水にもぐって、大声で長いさけび声をあげると、ぼこぼこという音が響いた。わたしは水の上に顔を出して息を吸い、もう一度もぐってさけんだ。そして、さらにもう一度。これで完璧だわ。ひんやりした水がしだいにたかぶった感情をしずめてくれた。たった一冊の本じゃないの。手に入らなかったからって、どうだっていうの? べつにどうってことないじゃないの。いつか、世界じゅうの本を手に入れるわ。たくさんの本棚にいっぱいの本をね。そして、塔のようにそびえる本に囲まれて暮らすのよ。一日じゅう本を読んで、桃を食べて暮らすの。そして、鎧に身をつつんだ若い騎士が白い馬にまたがってわざわざ訪ねてきて、話がしたいと頼んでも、あきらめて帰るまで桃の種を投げつけてやるのよ。
(斎藤倫子訳)


“果物の種”の処理法についてはいろんな論議があるが、「ダーウィンと出会った夏」は、そのひとつの正しい方法を示した作品として長く記憶されることになるだろう。そんなふうに思うのである。
・・・おっと、この本は青少年読書感想文全国コンクールの課題図書になっているので、早く図書館に戻さないと。でもこの記事が雑で短すぎるような気がするとしてもそのせいではないので念の為。



にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ





438. J・D・サリンジャー テディ (フルーツ小説百選)

そりゃあもちろん今でも ソラ で言える。
グラース家の兄弟の名前である。

「いま何時?」だしぬけにマカードル夫人が向うを向いて立っているテディの脚に向って尋ねた。「あんたとブーパーは十時半に水泳の練習があるんじゃない?」
「まだ時間あるよ」と、テディは言った。「   ザブーン!」いきなり彼は舷窓の外まで首を突き出すと、数秒の間そうしていてからひっこめたが「誰かがごみバケツにいっぱいになったオレンジの皮を窓から捨てたんだ」と、それだけ言って、またすぐ外へ頭を出した。(中略)
「オレンジの皮が浮いてるのが面白いんじゃない」と、テディは言った「オレンジの皮があそこにあるのをぼくが知ってるってことが面白いんだ。もしもぼくがあれを見なかったら、ぼくはあれがあそこにあることを知らないわけだ。そしてもしもあれがあそこにあることを知らなければ、そもそもオレンジの皮ってものが存在することさえ言えなくなるはずだ。こいつは絶好の、完璧な例だな、物の存在を   
(野崎孝訳)


グラース家の兄弟は、上から、シーモア、バディ、ブーブー、双子、そしてフラニーとゾーイー、である。 あれっ? では、テディは?



*「テディ」、短編集『ナインストーリーズ』(1953)に所収。


にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ



437. スティーヴン・ミルハウザー シンバッド第八の航海 (フルーツ小説百選)

フルーツ小説に対する最近のアプローチとして、すぐに思い浮かぶのは、ジャネット・ウィンターソンの諸作品やシーラッハの『犯罪』であるが、わたしが推したいのはミルハウザーの短編集『バーナム博物館』(1990)である。ここに収められた作品群には、一作、一作に、フルーツについてのゆたかなイメージがしっかりとひそんでいる。

午後遅く、斜めにさす日ざしは明るく、空は青い炎。商人シンバッドは中庭の花園北東の角、オレンジの暖かい木陰に座っている。なかば閉じられた瞼の向こうに、葉陰に舞う木漏れ日の典、大理石の日時計の白い柱や、遠くの白い噴水の縁をきらっと打つ光が見える。噴水を照らす陽光のように、かつての航海がゆらめき、ほのかに震える。熟れた黄色の実が木々にたわみ、水晶のように済みきった水の流れるあの川べりにたどり着いたのは、七つの航海のうちいずれであったか、シンバッドは思い出せない。シンバッドは思い出せない、彼の背中にしがみつく老人が現われるのは、あの毛深い猿のごとき、群れをなして船によじ上り鋭い歯で綱や索にかじりつく連中よりも前だったかあとだったかを。
(「シンバッド第八の航海」、柴田元幸訳)


ここには引退したシンバッドがいて、オレンジの樹の下でまどろんでいる。すでに七つの航海について語り終えたはずのシンバッドである。たしかに、オレンジの樹のしたで座ったり寝転んだりしているのがふさわしい。しかし、彼は、いつのまにか起きだして、新たな航海の物語を話し始めるのである。オレンジは、”休みの木”ではなかったか?



にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ



436. アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 人間の土地 (フルーツ小説百選)

「人間の土地」(1939)は、作家の職業飛行家としての経験を基に書かれた小説である。飛行機による長距離輸送の黎明期に於いて、パイロットたちは何を体験したか。
・・・たしかにこれは、サン=テグジュペリのもうひとつの代表作と呼ぶにふさわしい名作だと思う。例えて言えば、ギャビン・ライアルの航空冒険小説を思い出したのがはずかしくなるくらい。

それにしても、あの晩、なんと不思議きわまる地理学の講習を、ぼくが受けたことか! ギョメはぼくに、スペインを教えてはくれなかった。彼はスペインをぼくの友達にしてくれた、彼は、水路学のことも、人口のことも、家畜賃貸のこともまるで語らなかった。彼はまた、ゴーデスについても言わなかった、ただジーデスの近くに、ある原っぱを囲んで生えている三本のオレンジの樹について、<あれには用心したまえよ、きみの地図の上に記入しておきたまえ・・・・・・>と、言った。するとたちまちにして、その三本のオレンジの樹が、地図の上で、シェラネヴァダの高峰より幅を利かすことになるのだった。
(堀口大學訳)


引用は、物語の冒頭、若手操縦士である”ぼく”が、初めて長距離輸送便に起用されるに当たって、先輩パイロットからアドバイスを受ける場面。
気象変化や故障による”不時着”が当たり前であったこの時代、パイロットの地理学として必要な知識は、高峰や大河の位置ではなくて、草むらにかくれるように流れる小川や、牧原に待ち構える羊や、原っぱを囲んで生えているオレンジの樹の方であるのだという。


にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ




435. 台所からもどってみるとダイアナは

秋のグリン・ゲイブルスは、とても美しいらしい。
紅葉した樺や楓や桜の木の下に立つと、世界に十月という月のあることがうれしくてたまらなくなるという。

アンが台所からもどってみると、ダイアナは二杯めのキイチゴのコーディアルを飲んでいた。そのあとぜひもう一杯とアンがすすめると、三杯めもいやといわなかった。三杯ともコップになみなみついだのに、キイチゴのコーディアルはたまらなくおいしかったのだ。
「こんなおいしいのを飲んだのは、初めてよ」ダイアナがいった。
(「赤毛のアン」、掛川恭子訳)


今日の記事は、これだけの話である。
やはり、"キイチゴのコーディアル"より、"いちご水"のほうがいいな、
と、それだけの話。


にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ



434. いっそ桃をたべてみようか?

とある現代アメリカ小説を読んでいたら、こんな一節にめぐりあった。
"いっそ桃をたべてみようか?"
なにかこころに響くものがある。
出典をたどれば、T.S.エリオットの初期詩篇の一節だという。"荒地" のエリオットである。そういえば、"四月は残酷な季節" と書いたのは、萩尾望都ではなくてエリオットの方だったか。

さあ行こう、君と僕と、
夕暮が空いちめん、手術台で
エーテルを嗅がされた患者のようにのびひろがるとき、
なかばさびれた街をとおってゆこう、
(中略)

・・・・・
いやいや! 僕はハムレットじゃないし、そんな柄でもない、
主君の行列のにぎやかし、一つ二つの場面にとびだし
王子への忠言に一役買ってでる、
おつきの貴族にすぎないのだ、ほんとのところ、手軽な道具で、
へりくだり、お役に立てば喜び、
こすっからく、用心深い、おまけにこせこせして、
大言壮語するが、少しばかり頭が鈍く、
ときには、ほとんど馬鹿げていて  
ときには、ほとんど道化者だ。

僕は年をとる・・・・・年をとる・・・・・
僕はズボンのすそをまき上げて穿こう。

髪をうしろで分けてみようか? いっそ桃をたべてみようか?
僕は白いフランネルのズボンを穿き、海岸を散歩してみよう。
僕は人魚たちがたがいに歌いあっているのを聞いた。
・・・・・

(「J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌」(1911)、鮎川信夫訳)



この100年前に書かれた言葉が、今も鋭いエッジを残していることに驚く。
しかし"恋歌"というのは名ばかりのタイトルであって、これは"君と僕"とのはざまで発せられた嘆きの声だととらえればいいのらしい。
では、なぜ嘆いているのか?
それはもちろん "荒地" に向けて、行かなければならないからである。
   さあ行こう、君と僕と。気乗りはしないけれど。


にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ



被災地の学生を応援しよう!
プロフィール

jacksbeans

Author:jacksbeans
ようこそ!
記事のカテゴリ区分は、
①自転車、②図書室、③青、④メキシコ、⑤フルーツ、⑥階段、⑦画家、⑧スープ、⑨音楽、⑩綠、です



にほんブログ村 本ブログへ

ブログ村ランキング参加中、
クリックしていただけると幸いです。

カテゴリ
月別アーカイブ
04  12  09  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04 
検索フォーム
最新記事
PVアクセスランキング/海外文学
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。