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490. リチャード・ブローティガン 西瓜糖の日々 (フルーツ小説百選)

「西瓜糖の日々」(1964)、
・・・この小説を読む際に重要なことを、柴田元幸さんが文庫版の解説で記している。それは、この小説が60年代後半のカウンターカルチャー全盛時に書かれた作品ではなく、まだヒッピーもフラワーチルドレンも登場していない時期(1964年)に書き上げられたものであるということである。

 いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎてゆくように、かつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。あなたにそのことを話してあげよう。わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。(中略)
 アイデスの近くでわたしが書いているこの物語も含めて、ここでは、西瓜糖でじつにいろいろな物をつくる。  そのことを話してあげよう。
 そうなにもかも、西瓜糖の言葉で話してあげることになるだろう。
(藤本和子訳)


世界は西瓜糖で満ちている。
では、その分、抜け落ちてしまったものは何か。
それが、この作品の"読みどころ"ということになるのだろうか。



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489. 多和田葉子 オレンジ園にて (フルーツ小説百選)

「オレンジ園にて」(1997)、連作短編集『きつね月』に所収。
作家のあとがきを信じるとすれば、この作品集に収められた短編はどれも、ものに憑かれた時の、または、ものに憑かれたような状態について書きたいと思った、というところから書きはじめられたものだという。
"普通の言葉ではなくて、月の光が汚水に溶け込んだような言葉の流れ。その流れに身をすりよせて、手探りで、きつね月の痕跡をなぞりながら" 書き続けていったのが、この作品群なのだという。

この色、どこかで見たことある、と思ったのは、十二月のある日、東南アジアから、ハンブルグにもどって、机、窓、そのすぐ前の遊歩道は、雪に軌道を修正されて、その向こうの花壇の、そのまた向こうのエルベ川の、向こう岸で、なかなか空けない冬の夜、船の汽笛に貫かれる灰色の午前に見た、廃品回収車、背中に三人の男たちを乗せている、かれらの制服は、タイの僧衣と同じ色をしていた。オレンジ、陰に置かれた言葉を目覚めさせる色。果物の皮、剥かれたくない皮、中味には光はふくまれていない、むかれないままがいい、おまえの皮には果物一個以上の値うちがあるのだから、むかれずにいればいい、それにくらべて中味は、ビタミンCと言う噂に包まれた酸っぱい後悔の念。オレンジの皮は、お経をあげる人の心の色をして、朝霧の中をやってくる、御布施を集めに。
(「オレンジ園にて」、冒頭)


同じ作家の「文字移植」という作品では、そこに登場する翻訳家の訳文がみごとな"逐語訳"になっているという、笑いきれないほどおそろしいギミックを提示してくれたのだが、『きつね月』に所収された作品群を読むと、なんだ、ここにも逐語訳風の言葉が並んでいる! 日本語のシンタクスをいっさい配慮せずに綴られたような物語がなんでこんなにおもしろいのか! 、とそんなふうに感じさせられてしまう。たった一冊の本を読むことが、こんなふうに驚くような体験をいっぱいにもたらせてくれることがある、ということに久しぶりに気づかされたのである。



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488. デュ・モオリア 林檎の木 (フルーツ小説百選)

TheAppleTree.jpg


“フルーツ小説選”のなかに、ひとつくらい恐怖小説があってもいいな、ということに気がついて、迷わず選んだのがデュ・モオリアの「林檎の木」(1952)だった。
あからさまの恐怖も戦慄も、ここにはないけれど、ページをめくるたびに確実に着実に嫌な雰囲気がじわっと押し寄せてくるのがはっきりと感じられる。わずか70~80頁の作品だからこそ耐えられたのだとすると、これが短篇だったことに感謝すべきだと思うのである。

彼がその林檎の木に気が付いたのは、妻が死んでから三カ月目のことだつた。それが他の木と一緒に、上の畑の方に向かつて高くなつて行く家の前の芝生に生えてゐることは、勿論彼も知つていた。併しその木が左の列の三番目に、他のよりはテラスに向つてもつと傾いて生えてゐるといふことは別として、それが他の木と何かの意味で違つてゐるのを感じたことはそれまでに一度もなかつた。
 早春のよく晴れた朝で、彼は開け放した窓の前に立つて髭を剃つていた。そして朝の空気を吸はうとして、顔を石鹸の泡だらけにして剃刀を片手に、窓から体を乗り出した時、始めてその林檎の木に目を留めた。それは丁度その時森の向うから昇つて来た太陽の光線の加減で、木がさういふ風に見えたのかも知れないが、彼は、確かに似てゐると思つた。
(吉田健一訳)


1953年初版のダヴィッド社版の『林檎の木』は、かなり紙の劣化と変褪色が進み、修理が必要な時期になってきた。しかし古い本のもつ独特のにおいや雰囲気は、糊をつけ、テープを貼るごとに少しずつ失われていくような気がして、ついそのまま置いておくことになる。こんなふうに時々思いついたように取り出してきて本を開いてみると、なにか訳のわからないメモまで挟んであったりして、そこに閉じこめてきたもの、そこからこぼれおちてしまったもの、どちらもたくさんあるなぁと、ひとり失われた時を求めてみたりする。
・・・なんてしゃちほこばった感想を書いていると、少しはこの本の怖さも薄れるってものだ。



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487. ルイス・キャロル ふしぎの国のアリス (フルーツ小説百選)

創元社版『世界少年少女文学全集 』(全68巻 、1953-1960年)を取り出してみる。
なかなかの優れものの全集である。というか、子どもの頃これが家の本棚にあったことを感謝したいと思う。
ロビンソン・クルーソーがあり、宝島があり、ガルガンチュアがあり、リップ・ヴァン・ウィンクルがあり、・・・そしてアリスがあった。

 うさぎの穴は、しばらくのあいだ、トンネルみたいにまっすぐつづいていましたが、それから急にくだり坂になっていました。それが、いかにも急だったものですから、アリスはとまろうと思うひまもなく、そのまま、もう、なんだかとても深い井戸のようなところへ落ちこんでいるのでした。
 ところが、井戸がたいへん深かったせいか、それとも、ひじょうにゆっくり落ちて行ったせいか、とにかくアリスは、落ちて行くあいだに、あたりを見まわしたり、このつぎにはいったいどういうことが起きるのだろうか、と考えたりする時間がありました。(中略)そこで、井戸のぐるりを見ると、そこには戸だなや本だながいちめんについていて、ところどころに地図や絵が釘にかかっているのでした。アリスは、その戸だなの一つから、通りがかりに、びんを一つ取りました。それには、オレンジ・マアマレエドと大きく書いてありましたが、中はからっぽだったので、アリスはたいへんがっかりしました。
(吉田健一訳)


それではキャロルに倣って言語遊戯術を披露しようと思う。
でも、ただの駄洒落じゃないか、というのは禁句ですからね。
それでも念の為に、先に謝っておこう、"お粗末でした"。

①ピースオブケーキとトゥイードルダムとトゥイードルディー
②甘党茶会
③兎野アナ、女子アナコンテストに入賞
④ねむりねずみはねむりずみ
⑤三月うさぎよわれに五月を
⑥チェシャー猫のようなプリン
⑦マッド・ハッター家の一族とヤマネ(Y)の悲劇
⑧きらきら光る小森のおばちゃま
⑨栗鼠の掏摸アリスから花輪(wreath)を掏り
⑩「わたしはかき卵を作るときに」ハンプティは、いささか威張りくさった口調で言いました。「自分がえらんだ黄身だけを使うのだ」



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486. ジャン・ジュネ 泥棒日記 (フルーツ小説百選)

20世紀初のヨーロッパで、ジュネは泥棒となり男娼となって各地を放浪しながら、詩を書き、小説や戯曲を書いた。「泥棒日記」(1949)は、そのジュネの自伝である。ただし、虚構の自伝でもある。ジュネ自身は、この放浪のなかで、"最も美しい、また最も不幸な犯罪者たちとの同一化を追い求めていたのだ"という。

「さあ、やりな!」
 彼はその残っているほうの手で、わたしに、衣服を脱ぎたいということを知らせた。それで、わたしは毎夜のように葡萄の房をはずすために身を屈めた。
 彼は、薄い繊維で作られ、中に綿の詰った、作り物の葡萄の房をズボンの内側にピンでとめて付けていたのだ。(この実はすももほどの大きさのもので、当時この国の伊達女たちはそうした葡萄の房を、広い、つばのしなう、麦わら帽子につけていた)。『クリオラ』で、男色家がその膨らみに興奮して、彼のズボンの前のところを手で触るたびに、その指先はこの物体に出くわして、それを正真正銘の彼の宝物の房であると思いこんでいたその枝に、滑稽にも余りにも多くの実がぶら下がっているので、ギョッとなって縮みあがるのだった。(中略)
(その後、ずっと経ってから、アントワープでスティリターノに再会したとき、わたしは彼のズボンの下に隠されていた作り物の葡萄の房のことを思い出して、彼に話した。そのとき彼が語ってくれたところによると、あるスペイン人の淫売夫はドレスの下に、そして同じ部位に、薄布でできた薔薇をピンで留めていたという。「彼女の失われた花のかわりに」と彼は言った)
(朝吹三吉訳)


さまざまな"フルーツ小説"を読みすすめてきたが、このジュネの"葡萄"ほど、強烈なものはなかった。
強烈なあまり、「泥棒日記」というタイトルを失念するほどであった。失念してしまったあげく、作品のタイトルを、(私の頭のなかでは、) "失われた果実を求めて"と、勝手に改題してしまったほどであった。



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485. E・M・フォースター ハワーズ・エンド (フルーツ小説百選)

“フルーツ小説百選”も終盤まできた。
このシリーズの記事は、「ブライヅヘッド」で始まり、同じように家の名前を小説のタイトルに冠した「ハワーズ・エンド」で終わる、
という趣向もいいなと思ったりしたのだが、記事を書き始めてしまったのでは仕方がない。今日の一冊は、E・M・フォースターの「 ハワーズ・エンド」(1908-1910)である。
   ブライヅヘッドと同様、この家もまたさまざまな果樹に囲まれていた。ただし、こちらはお城のような大邸宅ではなく、古くて小さくてつつましい家であった。

わたしたちが考えていたこととは大違いで、古くて小さくてなんとも感じがいい、赤煉瓦の家。(中略)   前庭から見ると、窓が九つ。
それから庭と牧場の境に、家に向かって左側に、家に少し被さって大きな楡の木が一本生えている。その木がすっかり好きになってしまいました。またその他にもっと普通の楡や、樫の木や   それが普通の樫の木並みにしかいや味がなくて、   まだ他に梨の木や林檎の木、それから葡萄の木が一本ある。(中略)
こんな長い手紙を書くのは、まだ朝の食事の前だからです。ここの葡萄の葉が奇麗なことといったら。この家は葡萄の蔓で蔽われています。今から少しばかり前に窓から見たら、ウィルコックス夫人がもう庭に出ていました。
(吉田健一訳)


引用したのは冒頭のヘレンが姉のメッグに宛てた手紙の一節。
このなんとも感じのいい赤煉瓦の家、楡や樫や梨や林檎の木に囲まれた家、葡萄の蔓に蔽われた古くて小さな家が、この物語の主役になっていくのである。
・・・感想は、とりあえず、永遠の名作と書いておきたい。



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484. ディラン・トマス 桃 (フルーツ小説百選)

清志郎の歌に、”ブルーズを知らない人々に、ブルーズを聞かせよう”といった意味の歌詞があった。わたしはそれを捩って、”ディラン・トマスを知らない人々に、ディラン・トマスを読ませよう”といってみたい。
独特の音の歪みとリズムパターンをもって歌われるソウルミュージック。彼の詩や小説を読むと、そんなことを連想してしまったりする。

昼食がすむと、アニーがいった。「お昼からは、いい服を着なさいよ。縞のはいったのをね」
その日は特別の午後になるはずであった。ぼくの親友のジャック・ウィリアムズが、金持ちのお母さんと自動車に乗ってスウォンジーから来ることになっていた。そしてジャックは、ぼくと一緒に二週間の休暇をすごすはずであった。(中略)
「ウィリアムズの奥さんていうのは、大金持ちかい?」とグウィリムはたずねた。
ぼくは、彼女が自動車を三台、家を二軒持っていると話してやったが、それは嘘っぱちであった。「ウェールズでいちばんのお金持ちだよ。市長夫人だったこともあるんだ」とぼくはいった。
「ぼくたち、いちばんいいお部屋で、お茶のむの?」
アニーはうなずいた。「大きな罐詰の桃もね」とおばさんはいった。
「あの罐詰、クリスマスからずっと食器戸棚に入れてあるんだ」とグウィリムはいった、「きょうみたいな日のために、お母さんがとっておいたのさ」
「おいしい桃よ」とアニーはいった。おばさんは日曜日のように盛装するために、二階に上がっていった。
(北村太郎訳)


ディラン・トマス(1914-1953)は、”酔いどれ詩人”として有名だが、短編小説作家としても魅力的な作品を幾つも遺した。詩人らしく奔放で奇妙に歪んだ想像力で綴られた短編群は、ただ惹かれるというだけではなく、わけがわかんなかったり後味がわるかったりというような結果をもたらすこともあるのだが、それでも一度読むと手放すことができなくなるような、そんな力にあふれている。
「桃」(1938)、邦訳は作品集『皮商売の冒険』に所収。


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483. 西遊記 蟠桃会/聊斎志異 偸桃

蟠桃会は、中国神話に登場する最高位の女仙・西王母の聖誕祭(3月3日)である。長寿と富貴を象徴する宴会として知られる。祝いに訪れた上級の貴仙や神族に、九千年に一度熟する不老不死の仙桃が振舞われる。
西遊記(16世紀頃)では、果樹園の管理人に任じられた孫悟空が蟠桃会に招かれなかったことを恨み、蟠桃園の中の桃を盗み食いし、宴会場で大暴れする。

同じ西王母の庭の桃を盗る話でも、聊斎志異(17世紀頃)の「偸桃」は、神話や妖怪譚ではなく下界の庶民の物語である。役人に季節外れの桃を取って来いという難題を課されたひとりの男が、手許の縄を空高く投げ上げ、それを伝って子供に天界まで桃を取りに行かせるはなしである。結末では、偉そうな役人をあざ笑うという現代風なオチがつけられている。

悟空は確かに天才だ。これは疑いない。それははじめてこの猿を見た瞬間にすぐ感じ取られたことである。初め、赭顔、髭面のその容貌を醜いと感じた俺も、次の瞬間には、彼の内から溢れ出るものに圧倒されて、容貌のことなど、すっかり忘れてしまった。今では、ときにこの猿の容貌を美しい(とは言えぬまでも少なくともりっぱだ)とさえ感じるくらいだ。その面魂にもその言葉つきにも、悟空が自己に対して抱いている信頼が、生き生きと溢れている。この男は嘘のつけない男だ。誰に対してよりも、まず自分に対して。この男の中には常に火が燃えている。豊かな、激しい火が。その火はすぐにかたわらにいる者に移る。彼 の言葉を聞いているうちに、自然にこちらも彼の信ずるとおりに信じないではいられなくなってくる。彼のかたわらにいるだけで、こちらまでが何か豊かな自信 に充ちてくる。彼は火種。世界は彼のために用意された薪。世界は彼によって燃されるために在る。
(中島敦、悟浄歎異)


西遊記をそのまま書き写すのも芸がないので、ここでは、中島敦の短篇「悟浄歎異」(1942)を引用してみた。
ここに登場する悟空の魅力的なこと!
中島の構想では、この沙悟浄を主役とし語り手とする物語は、最終的に『わが西遊記』という長編小説(連作短篇集)として書き上げたいという意向があったようで、つくづく未完に終わったのが惜しい。




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482. 内田百閒 桃葉 (フルーツ小説百選)

「桃葉」(1938)は、百閒の初期短編のひとつ。
三島由紀夫によれば、この初期の昭和十年代の作品は傑作揃いなのだという。

四五人の客が落ち合って一緒にお膳をかこんだが、話しもはずまず時ばかりたつ様で、物足りない気持がした。
後からだれかもう一人来る様に思われたけれど、何人を待っていると云う事ははっきりしないなりで、みんなと途切れ勝ちの話を続けていると、暫くたってから、表で犬が吠えて、それから人の声が聞こえた。
「ああ僕です、いいんです」と云っているのが間近かに聞こえて、取次ぎより先に知らない男が這入って来た。(中略)
 私はその男に構わず、だれに話すともなく話しを続けた。
「机の一輪挿に挿しておいた桃の枝に赤い花が咲いて散ったから、枝を抜いて捨てようと思ったところが、青い葉っぱが出て来たので、まだその儘にしてある」
 お客はみんな曖昧な顔をして、ふんふんと云う様な恰好をしているらしく思われたが、その中のひとりが急に頓興な声をして、
「そりゃ、やめた方がいい。貴方はよく平気でいられますね」と云った。


「桃葉」も、なるほど名品だと思う。
怪談仕立てであるが、怖さが目立つわけではない。われわれの時代でいえば、筒井康隆さんの作品を思わせるような捻った笑いがそこに含まれている、そんな感じを受ける。読み終わったあと、余韻がとてつもなく長く響いて消えていかない。そんな小説なのである。



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481. 蜜柑/桜桃/檸檬 (フルーツ小説百選)

芥川龍之介の「蜜柑」(1919)、太宰治の「桜桃」(1948)、梶井基次郎の「檸檬」(1925)、各々の冒頭の部分を引用して並べてみた。ただそれだけのことであるが、当然のことながら面白さの質がずいぶん違うことに気がついて愉しくなる。そして、引用部だけではわからないが、"果物"の扱いも三者三様で、大きく異なるのである。


 或曇つた冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待つてゐた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はゐなかつた。外を覗くと、うす暗いプラツトフオオムにも、今日は珍しく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時々悲しさうに、吠え立ててゐた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。私の頭の中には云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた。私は外套のポツケツトへぢつと両手をつつこんだ儘、そこにはいつてゐる夕刊を出して見ようと云ふ元気さへ起らなかつた。
(「蜜柑」)


「蜜柑」は、三つの作品のなかでは、最も短篇らしい短篇である。
きっちりと構成されていて、破綻するところがない。"蜜柑と少女"のエピソードも効果的である。短篇小説を書くときの手本にしたいようなみごとさである。しかし、その分、驚かされるところはない。古めかしい感じもする。百年という時間のなかで、ちょっとだけ表面にほこりをかぶっただけなのかもしれないが。


 子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少くとも、私の家庭においては、そうである。まさか、自分が老人になってから、子供に助けられ、世話になろうなどという図々しい虫のよい下心は、まったく持ち合わせてはいないけれども、この親は、その家庭において、常に子供たちのご機嫌ばかり伺っている。子供、といっても、私のところの子供たちは、皆まだひどく幼い。長女は七歳、長男は四歳、次女は一歳である。それでも、既にそれぞれ、両親を圧倒し掛けている。父と母は、さながら子供たちの下男下女の趣きを呈しているのである。
(「桜桃」)


これはもうまさに太宰風の私小説である。モノローグのようなものである。
ところが実は巧みに小説として構成されてもいて、最後に挿入される "桜桃を極めてまずそうに食べる"というシーンなど、みごとというしかない。現代小説のような鮮やかさも残していることにも驚いた。


 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。
(「檸檬」)


小説というよりも、みじかく端正な散文詩を読んだような気分になった。
京都寺町の"果物店"の描写の美しいこと!
そしてその店で買った"檸檬"の使い道の激しくて哀しいこと!



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