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833. ポール・オースター ムーン・パレス (画家小説百選)

MoonPalace.jpg


「ムーン・パレス」(1989)は、オースターの長編、第6作。
物語の舞台は、1960年代後半のニューヨーク。
大学を出たばかりの青年が辿る苦難と冒険を描く悲喜劇(?!)、である。
・・・いつものとおりオースターの綴る豊かな物語に浸っていると、もしかして見逃してしまうかもしれない。これは青春小説であると同時に、また、ひとつの芸術家小説でもあるのだと思う。

「あなたは重要な人物だったんですね」
「非常に重要な人物だった」(中略)
「ジュリアン・バーバーだったころは、何をなさっていたんです?」
「画家だった。偉大なるアメリカの画家だ。もしあのまま続けていたら、いまごろはあの時代最大の画家と言われておるだろうな」
(柴田元幸訳)


主人公の青年、マーコがようやく見つけた仕事は、トマス・エフィングという老人の家に住み込み彼のために本を読むことだった。そして、しぱらくすると、この老人が昔はジュリアン・バーバーという名前を持つ画家だったことがわかってくる。
そして、作中、バーバーと同時代の画家が、もうひとり登場してきて、物語の中で重要な役割を担う。
それがラルフ・ブレイクロック(1847-1919)であり、彼の「月光」という作品である。
実在したこの画家の絵を見ながら、この小説が語ろうとしていることと、絵が語りかけてくることを比べてみるのも面白いのかもしれない。そんなことを思わせられたりする。


Blakelock.jpg
(Ralph Albert Blakelock Moonlight (1885) , Brooklyn Museum)



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832. 東村アキコ かくかくしかじか (画家小説百選)

東村アキコの堂々たる自伝。
第1巻は、高校3年の少女が、美大受験のために通い始めた謎の絵画教室のエピソードから始まる。

私はその時に初めて教室中に飾られた絵をちゃんと見ました。
それまではそんな余裕すらなかったのです。
何この絵。(中略)
カルチャーショックでした。悪い方の意味で。
当時「ぶ~け」をどっぷり愛読していた私にとって、絵というのは内田善美先生の美しい少女の絵であり、吉野朔実先生の緻密な植物描写の透き通るようなカラー表紙であり、松苗あけみ先生のピンクの薔薇しょったフリルとリボンの可愛い美少女達であり・・・、(中略)
やっぱここ・・・・、違うかも。
(第1巻、02話)


美大を舞台にした漫画はいろいろある。
わたしの一番のお気に入りは、くらもちふさこさんの「銀の糸金の針」である。
でもどうしても本が出てこない。どこへしまってしまったのか。
そんなとき、ダンボール箱の中から代わりに出てきたのが、この「かくかくしかじか」だった。
まあいいか。


Linda Ronstadt
(Linda Ronstadt- A Retrospective (1977)、
くらもちさんの作品に登場する歌、「Silver Threads and Golden Needles」が含まれる)




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831. ジャン・エシュノーズ ぼくは行くよ (画家小説百選)

Jean-Echenoz_-Je-m-en-vais.jpg


「ぼくは行くよ」(1999)は、エシュノーズの長編、第8作。
ゴンクール賞、受賞作品。
登場するのは、元・彫刻家で美術商のフェレール、そして彼のガールフレンドたち、それからフェレールのギャラリーが契約している画家たち、・・・・・マルチノフ(売れっ子)、グルデル(落ち目)、コルデー(駆け出し)、スポンチーニ、ブクレール、等々。

ところでフェレールは今度は引っ越ししようともくろんでいる。越そうと思えば越せるのだ。ヌシリク号で見つけた宝物はかなりの利益を生み、さらには市場が近ごろ持ち直してきた。電話はまた鳴り始め、コレクターはトカゲのような目を再び開き、その小切手帳は鯉のようにポケットから飛び出してくる。造形作家たちと手を切ったことも、稼ぎにはまったく影響を及ぼさない。何しろたとえばマルチノフは公式画家のステータスへ向けて邁進している。ロンドンの諸官庁ホールや、シンガポールの工場玄関、至るところの劇場の幕や天井画といった注文が舞い込み、外国では次々と回顧展が催されている、というわけでめでたしめでたし。ブクレールとスポンチーニは寝耳に水という様子だったが、支持層をしっかり強化することにし始め、もう誰からも相手にされていなかったグルデルですら、また少し作品が売れ出した。こうしたけっこうな流動資金のおかげで、アパルトマンを変えることができる、その権利がある、そうしよう、とフェレールは判断したのである。今や購入する余裕すらできた。だから何かもっと大きいものを新築物件の中で、たとえば八区に完成したばかりで一月上旬には入居を開始する、空に突き出した最上階などどうだろう。
(青木真紀子訳)


いやいや、フェレール君の生活は最初からこんなに順調に進んできたわけではない。
むしろ苦難の連続であった。ビジネスも、ガールフレンドについても。
それらの苦しみを、彼は持ち前の前進するエネルギーで、さらに作家のウィットに富んだストーリーテリングの技術に支えられ、なんとか乗り越えてきたのだった。

おっと思わず「ウィット」という言葉を使ってしまったが、イギリス伝統のユーモア小説とはあきらかに異なるこのフランス風の筆致については、また別に記事を書いてみたいと思う。
以上、報告します。



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830. 吉岡実 ポール・クレーの食卓 (画家小説百選)

吉岡実 ポール・クレーの食卓


吉岡実(1919-90)は、少年の頃、彫刻家への夢があったという。だから、自分の作品について絵画性があるとか彫刻的であるとか言われることについても、それでよいと思うと語っていたそうだ。
たしかに、彼の「静物」や「僧侶」などの詩を読むと、それがみごとな絵画のように思えてくるのだし、また秘めたる造形への願望が感じられるような気もしたりする。

さらに、自身の詩集を含めて多くの装丁作品を遺していることも印象深い。
そしてまた、ポール・クレーのような詩も書きたいともらしていたという。


「ポール・クレーの食卓」

孤独な心になじみの物は
一度はすべて固い光の形を解いて
人の住まぬ暗い家にはいり
尊大な金属のかげに
いきいきとした像をむすび
ささやかに屯する
このせまい室内のおくでは
フォークはなえた草のように生え
唇をうしなったグラスは宙にかたむき
にがい酒はながれる
腸詰の皮と骨ばかりの魚は沈む
俯瞰することのできない水の市に
とりのこされた布の断崖
猫がちらりと見上げる
暗い光線をだいているおもみで
からの罎は立っている
卓の上に棲みついて独り
だれだって立っているということがさびしくなる
しぜんにほそいくびになる
招かれないので
朝から晩まで戸口の隅に
つぼまったまま滴をたらしている雨傘
卓のまわりは椅子が寄り
皿や器が集ってくる
そのなかには無益にも食いあらされた皿もある
それにもまして哀しいのは汚れない皿
棚のうえに重なり重なり
そのまま夜はバターの下でひびかない
こころなごむ宴も終りちかく
母のふくらむ腹をした
塩の壺のなかから
声がでてくる
応えがないのでまたもとのところへ戻る
永遠に拭く人の現われぬ食卓
四方から囲む
白いかべはたった今
海をのんだのかひっそりとして

(1957)


クレーの作品は、日本では、宮城県美術館にまとまったコレクションがある。
合わせて、同美術館には、ドイツ表現主義の作品、バウハウス縁の作品が多く所蔵されている。
そりゃあもう、ぜひ見に出かけてみたいものだ!




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829. R.A.ラファティ 深色ガラスの物語 (画家小説百選)

「深色ガラスの物語」(1981;副題、非公式ステンドグラス窓の歴史)、邦訳は、青心社版の短篇集『翼の贈り物』に所収。 物語の視点は、空間的にも、時間的にもきわめて壮大!、言わば"ラファティ版世界史"の一片を見るような気持ちにさせられる作品である。
その一方で、書き綴られる物語の細部はあきれるほど克明!、
まるでミニマル・アートのようなのである。
…ラファティの読者としては、とりあえず、笑っておくしかないか?!

ネアンデルタール人の作った家や体育館、洞窟が見事なステンドグラス窓で飾られていたのは紛れもない事実であるが、ここにはちょっと補足説明が必要だろう。(中略)
はるか後の時代、ネアンデルタール人が姿を消した後、今日に及んでも、"霜巨人"、あるいは単に"自然気象"がガラス窓に霜の絵を描くという言い方をする時がある。だがそのような場合でも、それはあくまで絵のように見えるだけであって、本当の絵であるとは言えない。(中略)
それでも、その心を使って描いた、という言い方は可能だったろう。どんな絵を描いてほしいか、だいたいのイメージを示して、気象の霊、つまり『世界の生ける霊』に描いてくれるように頼んだのだ。そもそも『世界の生ける霊』の中には、ネアンデルタール人になっていたものもいたのだ。
(井上央 訳)


引用したのは、物語の冒頭である。
もちろん、ここから、この物語はとんでもないところまで飛んでいって、みごとな場所に着地する。
読者はといえば・・・、とりあえず、拍手しておくしかないか。



The Berkley Showcase



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★416. 君にリンゴの果樹園を約束したおぼえはないね


SNOO.jpg


『I Never Promised You an Apple Orchard』(1976)、
・・・これはスヌーピーが書いた著作集である。
本のタイトルは、谷川俊太郎による秀逸な邦訳を借りると、『君にリンゴの果樹園を約束したおぼえはないね』、となる。
意味は、”ないものねだりをしてもしかたがないさ”、というような感じ。いつものスヌーピーの人生に対するシニカルな視点が込められている。
原文の一節を引用してみる。

“Our love will last forever,”he said.
“Oh,yes!yes!yes!”she cried.
“Forever being a relative term,however,”he said.
She hit him with a ski pole.
(Charles Monroe Schulz,The Collected Writings of Snoopy)


“永遠なんて、結局、相対的なものなんだけどね”と呟いたとたん、ひっぱたかれてしまう彼の姿はもの哀しい。しかし、人間たるもの、ひっぱたかれることを覚悟してでも言うべき時ってものはある。楽園なんて相対的なものでそんなものどこにもありはしないのさと。

このスヌーピーの真摯な態度をみるにつけ、   ともすると、果樹園に”楽園”のイメージを簡単に重ねてしまいがちなわたしの貧弱な想像力を、ただ恥じるばかりである。反省のために、スキー・ポールででも林檎の木の枝ででもひっぱたいてほしい。



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☆668. The New Museum (美術館の階段)

画像は、ニュー・ミュージアム(ニューヨーク)の階段。
SANAA(妹島和世+西沢立衛)の設計による2007年の作品である。
七階建てのビルの各階は、こんな細い階段でつながっている。


NEWMUSEUM1.jpg



藤森照信によれば、20世紀の建築は妹島和世の作品で一段落を打ち、以降は21世紀の建築に取り組む新たなシーンに入っていると、そう捉えればいいのだそうだ。
実際に New Museumを見て、眺めて、そして美術館としての建物の機能や雰囲気を味わってみると、たしかに現代建築のひとつの着地点がこんなところにあるのだろうと、そんな気持ちがしないではない。
そして、このとても細い階段! のチャーミングなこと!


NEWMUSEUM2.jpg
(New Museum of Contemporary Art、New York)




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828. フリオ・コルタサル グラフィティ (画家小説百選)

コルタサル


「グラフィティ」は、コルタサル(1914-1984)の晩年の短篇集『愛しのグレンダ』(1980)に所収の一篇。
この本には、すこぶる巧みでそれでいてきらりと尖った作品が10篇、収められている。
しかし、まずは、邦訳版の表紙を見なければならない。
カバー画は、レメディオス・ヴァロの「Locomotion Capilan」(1959)である。
この短篇集の魅力を確実に増幅する貴重な役割を果たしている。 

遊びとして始まり、そしてたぶん遊びのまま終わるものごとは数多くある。思うにあなたは、自分の描いた落書きの横に別の落書きを見つけて、面白い気がしたものの、偶然か気まぐれの産物だと考え、そして二度目になって初めて、それがわざと隣に描かれたことに気付いたのだろう。そこで今度はその画をじっくり眺めたばかりか、さらに、あとで戻って来てもう一度見直すことさえした。いつものように用心深く、通りに人がいなくなる時間、近くの街角にパトカーの影が一つも見えなくなる時間を見はからって、なにげなく落書に近づき、しかも正面からではなく、反対側の歩道から、あるいは隣のショーウィンドーに気があるふりをして斜向かいから眺めると、すぐに立ち去ったのだった。
(野谷文昭訳)


「グラフィティ」、物語の舞台は、軍事政権下のブエノスアイレスとみられるとある都市。
ここに、二人のグラフィティ・アーチストが登場する。
ひとりは物語を二人称で語りつづける語り手、もうひとりは「あなた」と呼ばれつづける画家。
二人称で語られる小説もめずらしいが、その物語の中で二人の描いたグラフィティ(落書き)同士が会話する!ことにも驚かせられる。
驚かされて、そして魅了される。

コルタサルには、画家や絵画が重要な要素となる短篇が多いのだという。
「グラフィティ」の他に、「局面の終わり」、「ソレンティーナメ・アポカリプス」、「ふたつの切り抜き」等々の作品が挙げられている。・・・・・邦訳がありますように!



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827.バーナード・マラマッド フィデルマンの絵 (画家小説百選)

Pictures Of Fidelman


わたしはマラマッド(1914-86)の短編が大好きである。
邦訳の短編集は、次の三冊。
①魔法のたる(1958)、角川文庫 (新潮文庫の「マラマッド短編集」と内容は同じ)
②レンブラントの帽子(1974)、集英社
③フィデルマンの絵(1969)、河出書房新社
(他に、日本オリジナルの作品集として、「喋る馬」 スイッチパブリッシング社、がある)

「魔法のたる」は古典のようなものであるし、「レンブラントの帽子」もすこぶる魅力的である。
この二冊は、どちらも、貧しいユダヤ系移民の街や家族や人間をリアルに描いた作品集で、もちろん読み応えがあるのだが、しかし、今、読むとどちらもやや古めかしく、少し重く暗く感じたりする。
それに対して「フィデルマンの絵」は、ちょっと調子が違う。
なにやら現代小説ばりの悲喜劇や不条理劇のような調子の連作短編がならび、小説を読むことの面白さを存分に味あわせてくれる。いつ読んでも、いちばん楽しませてくれる短編集だと思うのである。


フィデルマンは、画家としては落第であることをみずから認めて、ジォットー研究の準備をするためにイタリアへやってきた。その最初の章の原稿は、彼がいま汗ばんだ片方の手にしっかり握っている、新しい豚皮の書類かばんに入れられて、はるばる海を渡ってきたのである。新しいのはかばんだけではなくて、濃い赤色のゴム底の靴も、ツィードの服もそうであった。(中略)
アメリカを出発する時にはそれほどでもなかったが、ナポリに着いたころから気分(ムード)が出てきて、今こうしてローマの終着駅の正面に立っていると、「永遠の都」をはすじめて目の前にしてからもう二十分もたつのに、まだうっとりと心をうばわれたままであった。
(第一話「最後のモヒカン」、西田実訳)


「フィデルマンの絵」は、画家になることをあきらめた青年、フィデルマンが、アメリカからイタリアに渡り、美術の研究者を目指そうとして生きて行こうとする話である。六つの作品による連作短編集のかたちをとる。
もちろん、すんなりと留学生活が進むわけもない。
奇妙な男に付きまとわれたり、ルームシェアをした画家の女性に悲惨な恋をしたり、ギャングに監禁されて名画の贋作を描いたり、再び絵を描きだして一瞬の傑作をものにしたり、地面に穴を掘る彫刻作家になったり、洪水のあとのベニスでガラス工の男と妻との三角関係に陥ったりと、悪戦苦闘を続けて、最後には・・・。

こんなふうに書くとなにかコメディのようだがそうではない。読み終わって、結局は笑ってしまうことになるにしても、この小説には、おかしさと同時に、奇妙でほろ苦くて不思議なペーソスがあふれていて、それがいちばんの魅力になっているのだと思う。また、短編ごとに、主人公の青年がこころ魅かれるという設定で、ジォットーやティツィアーノやドナテーロなどの古典的な名画や彫刻作品が登場してくるのも楽しい。マラマッドの中でも、この短編集がいちばんのお気に入りになったのである。



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