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884. ブライアン・エヴンソン 都市のトラウブ (画家小説百選)

エヴンソン


「都市のトラウブ」は、奇妙な一篇である。わずか2-3頁の掌編であるが、こころをざわつかせることにかけては一品、極めて強烈な作品である。それはもう鳴り物入りで日本にも登場してきたエヴンソンのこと、どれほどのものか見極めてやるぞと意気込んでいたら、あっさりとそんな読者を飛び越えていった。
決して悔し紛れでいうのではないが、この「都市のトラウブ」という作品、余分な解釈はしないことだ。トラウブは画家なのか? 何を描いていたのか? どの世界のことなのか? 等々、全部余分である。そんなことは考えずに、ただ、強くこころをざわつかせられたことだけを確認したら、あとはそれも含めて忘れてしまうことだ。悪夢とはいわないが、奇怪な夢を見てしまうことになるだけだから。

 夕暮れ近く、トラウブが予期していたよりずっと前に、顔に著しい変化が現われた。鼻が剃刀の刃のようにどんどん切りたってきて、頬は窪み、皮膚はぴんと張りはじめた。トラウブはなおも横顔を描きつづけようとしたが、顔があまりの速さで変わっていくものだから、かりに捉えられるとしても、もう何段階か前のそれしか捉えられなかった。(中略)
顔たちはすさまじい迅速さでやって来てトラウブはめまいに襲われ、もはや紙も鉛筆も忘れてしまい、ただ眺めるばかりで、人類の膨大なシャッフルのなかにほとんど自分の姿を認めたのであった。
(柴田元幸訳)


ブライアン・エヴンソンの「都市のトラウブ」は、短編集『遁走状態』(原題Fugue State,2009)に所収の一篇。エヴンソンは、日本では初めての翻訳書である。しかし、既に短篇は幾つか訳されていたし、今回の出版についてもその"事前のアナウンス"はすごかった。曰く"幻想と覚醒が織りなす19の悪夢"、"ホラーもファンタジーも純文学も超える驚異の短篇集"、"ブライアン・エヴンソンほど強烈で、多産で、世界の終わりを見据えた書き手はほかにいない"、等々。
さらにまた、この作品集についてということではないが、毎日新聞には作家本人の自作小説についての紹介文(下記に引用)も載った。それはもう、これだけ情報があれば充分に充分である。あとはもう読むだけ。読んでたのしむだけだ。おまけに見つけてしまったのである。短編集の中には、"画家小説"まであった。

 人はどのように現実を見ているのか。私はこの問題に大変興味がある。何年も前、駐車場を歩いていて、遠くに一羽の鳥が見えた。それは奇妙な動き方をしていた。ちゃんと飛び立つ代わりに、滑るようにあちこちへ動いていたのだ。翼を痛めたのか、怪我(けが)でもしたのか。私は興味を惹かれて、そばへ寄ってみた。
 すぐそばまで寄ってみて、鳥だと思ったものは、風に舞う木の葉だとわかった。だが私は、真相がわかったあとでも、ある次元においてそれはさっきまで鳥だったのでありそれがなぜか木の葉になったのだ、と考えずにいられなかった。はじめに私が見た鳥はいまなお現実なのだ、と。
 私の小説は、木の葉の中に隠れた鳥を再発見すること、人が現実を見るその見方と現実の真のありようとのギャップを経験することが主題なのだと思いたい。私の小説の登場人物たちは、自分の周りの世界を理解しよう、不安定さを受け入れて生きようと苦闘している。つねにほんの少し手の届かないところにあるように思える世界を前にして、何とか生き抜こうとしている。その苦闘を、読者にも共有してほしい。私の書く物語を通して、現実を別の形で理解してほしい。
(エヴンソン「現実の見方と真とのギャップ」、柴田元幸訳;毎日新聞・東京夕刊、9/3/13 )





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883. 北原亞以子 輪つなぎ/慶次郎縁側日記 (画家小説百選)

北原亞以子、あした


「輪つなぎ」(2008)は、慶次郎縁側日記シリーズの一篇。
作品集『あした』(2012)に所収。
この話の主人公は慶次郎ではなく、岡っ引の”蝮の吉次”である。
吉次が、ある女から相談を持ちかけられたところから、物語が始まる。

 嫌いな話ではなかった。いや、おおいに気に入った話であった。金を渡した相手が行方をくらましたので、探してくれというのである。
 まず、金さえ戻れば相手などどうなろうとかまわないというのがいい。さらに、その金は空巣でためたという打明け話が、吉次の心を揺さぶった。空巣でためた金を年下の男に貢いでしまうなど、今時めずらしい話ではないものの、それをあっさり岡っ引に打明けて、取り戻してくれという女の度胸というか開き直った強さというか、そういうものに吉次は感動してしまうのである。
「で、男の名前は」
「条吉。金を持って行方をくらますまでは、亭主だったんですけどね」
「今は」
「金を騙し取った、騙りの男」
(中略)
「それじゃ条吉の顔を」
「描いておきましたよ」
 おさわは立ち上がって、長火鉢の抽斗から半紙大の奉書紙をだしてきた。「ほら」と膝の前に置かれたそれを見て、吉次は舌を巻いた。絵師といってもよい巧みさで、若い男の顔が描かれていた。
「うめえものだな」
「当り前ですよ。錦絵の画工(えかき)になるつもりで、歌川派に入門したんだもの」

(北原亞以子、「輪つなぎ」 冒頭、新潮社)


時代小説に絵師が登場する作品は、幾つもある。魅力的な小説も多い。
その中で、慶次郎縁側日記のこの一篇を選んだのは、作品がこじんまりと気持ちよくまとまっていること、吉次が格好良く登場すること、そして、このシリーズ自体が終わってしまったことへの謝意のような気持ちからである。約20年に渡って書き継がれてきたこのシリーズも先日、最終巻が出版された。作家と作品に、多謝。



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882. フローベール 感情教育 (画家小説百選)

Gustave Flaubert

"Google Logo"には、作家シリーズもいろいろあって、たまたまフローベールのを見つけたので画像を借りてきた。もちろん、この横顔を少しだけ見せている女性が、ボヴァリー夫人なのか、「感情教育」のアルヌー夫人なのかということなどぼんやり考えている。

 1840年9月15日、朝の六時頃、出帆まぎわのヴィル=ドゥ=モントロー号がサン=ベルナール河岸の前で、もくもく煙のうずを上げていた。(中略)
 やがて、船が出た。そして倉庫や材木置場や工場の並んだ両岸が、二条の幅広いリボンをくりひろげるように走りだした。
 髪を長くした十八歳の青年が一人、写生帳をかかえて、身動きもせず、舵のそばにたっていた。霧をとおして、その眼は鐘楼や名を知らぬ建物を眺めている。それから、最後の一瞥に、サン・ルイ島、ラ・シテ、ノートル=ダム寺院などをずらっと見わたした。パリが消えてゆくと、青年は深い溜息をついた。
 最近にバシュリエ(大学入学資格者)試験に合格したフレデリック・モローはノジャン=スュル=セーヌへ帰るところであった。あらためて法律書生になりにくるまえ、郷里で二月ほど退屈な日を過ごさねばならなかった。母親はわが子のため遺産を心あてにしている伯父に会いにゆけと、旅費まで持たせて、青年をル・アーヴルへゆかせた。やっと昨日、そこから帰って来たところだ。そこで、ゆっくり首都に滞在できない意趣ばらしに、国へ帰るのにわざわざいちばん遠い道筋をえらんだのである。
(生島遼一訳)


「感情教育」(1864-69)は、青年フレデリックに焦点をあてた成長小説であると同時に、二月革命前後のフランスの1840年代という時代を生きた青年たちを描いた群像小説でもあると思う。とすれば、本当の主人公は、フレデリックか、彼と彼の友人たちか、それともその時代そのものを描こうとしたのか・・。読み方はむずかしいが、ひとつだけ言えることは、これはフレデリックとアルヌー夫人の恋物語ではないのである。たとえ、読後に、アルヌー夫人の美しさについてだけしか印象に残っていないとしても。



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☆ 693. 緑の部屋、その2

Kaisertreppe3 (Emperors Staircase)
(ミュンヘン・レジデンツ、皇帝の階段)


先の記事で、『これほど美しい"みどり"を見たのは初めてだ、そんな気がした』、と書いた。ヴュルツブルクのレジデンツを見ての率直な印象だった。ところが、それはほんの前触れにすぎなかったのである。ドイツの近世の宮殿を見て歩くと、次から次へととんでもなく優美な "緑の部屋" が現れてきたのである。


Munich Residenz02

ひとつめは、ミュンヘン・レジデンツの"緑の部屋"(grüne galerie)である。
18世紀の王侯のギャラリーを、当時のままの姿で見せてくれる。
この部屋の"みどり"は、御覧のように、"金色"と組み合わせられた緑である。
GreenとGoldの組み合わせ! みやびである。仮に、わたしの緑の車に金色のホイールをはかせてみると、これは下品のような気がするが。


○Queens bedroom

ふたつめは、ミュンヘンのニンフェンブルク城の緑の部屋(Queen's bedroom)。
18世紀のバロック様式の宮殿である。王妃の寝室は、しかし、抑えられた色調のみどりが魅力的である。


ドレスデン、緑の丸天井

三番目は、ドレスデン美術館の"緑の丸天井"(ザクセン王家の宝物展示室)である。
中世の王家の宝物庫が、後に18世紀のバロック様式の展示室(博物館)として改装・公開された建物である。第二次大戦で破壊されたものが、修復され2006年に改めて開設された。画像は、Silver Gilt Roomと呼ばれる部屋である。こちらの緑も、金・銀の華麗な装飾品と組み合わせられた緑色である。主役は金・銀に譲るものの、緑が部屋の雰囲気を実質的に支配しているように感じられるが、どうか。


さてさてさて、最後になってしまったが、付けたしのようになってしまったが、"ミュージアムの階段" である。
レジデンツのインペリアル・ホールには、「皇帝の階段」というものものしい名前の階段が設けられている。
17世紀初頭のマクシミリアン1世(バイエルン公)によるこの宮殿は、はるか12世紀から続く王家の栄華を表したものだという。階段もまた、豪奢である。この内装の華麗なこと! 絨毯や床材の臙脂色も優美である。これは緑ではなく、この色でよかったか。



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881. 宮沢賢治 かしはばやしの夜 (画家小説百選)

注文の多い料理店


「かしはばやしの夜(よ)」は、短編集『注文の多い料理店』(1924)に所収の一篇。
賢治自身が書いた紹介文によれば、この作品は、こういうはなしだという。
   桃色の大きな月はだん/\小さく青じろくなり、かしははみんなざわざわ言ひ、画描きは自分の靴の中に鉛筆を削つて変なメタルの歌をうたふ、たのしい「夏の踊りの第三夜」です。

清作は、さあ日暮れだぞ、日暮れだぞと云ひながら、稗の根もとにせつせと土をかけてゐました。
 そのときはもう、銅(あかがね)づくりのお日さまが、南の山裾の群青いろをしたとこに落ちて、野はらはへんにさびしくなり、白樺の幹などもなにか粉を噴いてゐるやうでした。
 いきなり、向ふの柏(かしは)ばやしの方から、まるで調子はづれの途方もない変な声で、
「欝金(うこん)しやつぽのカンカラカンのカアン。」とどなるのがきこえました。
 清作はびつくりして顔いろを変へ、鍬をなげすてて、足音をたてないやうに、そつとそつちへ走つて行きました。
 ちやうどかしはばやしの前まで来たとき、清作はふいに、うしろからえり首をつかまれました。
 びつくりして振りむいてみますと、赤いトルコ帽をかぶり、鼠いろのへんなだぶだぶの着ものを着て、靴をはいた無暗にせいの高い眼のするどい画(ゑ)かきが、ぷんぷん怒つて立つてゐました。


日暮れどき、である。へんにさびしいのである。男が、かしはばやしの方から出てくるのである。変な声でどなっているのである。それで、びっくりするのはよい。あたりまえの反応である。しかしその後がいけない。どうして、そっちへ走っていくのか。ほんとうなら逃げるところだぜ。なのに行くものだから、奇妙な男に出会ってしまう。自業自得だぜい。そんなことを言ったって足が動いてしまったから仕方がない。でもそのおかげで、おかげでとんでもないものを見ることができたんだ。柏(かしは)の木大王のお客さまになったんだぜ。夏のをどりの第三夜だぞ。みんなが歌いだすんだよ。お酒もあるし賞品のメタルもある。ゆかいゆかい。木も鳥たちも踊る。ゆかいゆかい。お月さまもたのしかったかな。あれ、いつのまにか絵描きの男がいなくなっていました。



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☆ 692. 階段の間と緑の部屋

☆treppenhaus,Residenz Würzburg
(ヴュルツブルク・レジデンツ、階段の間)


"ミュージアムの階段"を象徴する存在は、わたしの中には二つあって、一つはメトロポリタン美術館のエントランスの大階段、もう一つはドイツ、ヴュルツブルク・レジデンツの階段の間である。

ヴュルツブルクのレジデンツは、18世紀に建てられた。その美しさは、ヨーロッパのバロック形式の宮殿の中でも屈指の存在である。そして、建物内部には、あの有名な "階段の間" がある。その部屋は、柱の無い広大な吹き抜けになっていて、天井にはティエポロの描いた大きなフレスコ画が飾られている。その優美さは、この世のものとは思えない・・・。


このどこかのガイドブックのような美辞麗句だらけの説明がそっくりそのままわたしのなかに刷り込まれていて、ああいつかこの目で見たい、早く見たい、いつまでも見ていたいと、そんな調子で"階段の間"との出会いのときを待ち焦がれていたのだった。

実際にこのレジデンツを見て、"階段の間"の期待どおりの優美さにためいきをついたわけだが、宮殿をめぐり歩くなかで、最もこころを揺さぶられたのは、その部屋ではなかったのだから、わからないものだ。


☆gruenlackiertes,Würzburger Residenz
(ヴュルツブルク・レジデンツ、緑の部屋)

ではいったい何にこころを動かされたのかというと、それが、この"緑の部屋"なのである。
画像のとおり、ほぼ全面みどり一色の部屋!
この濃いみどりの色調に、また漆塗りのような色感に、そして部屋全体に漂うみどりいろの雰囲気に深くこころをうたれたのだった

ロンドンのヴィクトリア&アルバート・ミュージアムの"モリス・ルーム"(The Green Dining Room)の暗いみどりの部屋も素晴らしいものだった。モリス自身は、中世の芸術に憧れていたそうだが、その作品は近代デザインの源となったといわれているように、とても"モダン"な感覚のものでもあると感じた。
比較すると、ヴュルツブルク・レジデンツのGreen Roomのほうは、中世とまではいかないが、"近世"の古めかしさと優美さがようく現れていたという気がする。大袈裟かもしれないが、これほど美しい"みどり"を見たのは初めてだと、そんな気がしたのだった。

(つづく)



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880. フレドリック・ブラウン 漫画家とスヌーク皇帝 (画家小説百選)

Nightmares and Geezenstacks


フレドリック・ブラウンの「漫画家とスヌーク皇帝」は、SF短編集『Nightmares and Geezenstacks(未来世紀から来た男)』(1961) に所収の一篇。この作品には、”マック・レナルズと共作”、という括弧書きが付せられている。
マック・レナルズって誰だったっけ?というのはともかくとして、「漫画家とスヌーク皇帝」は短篇というより掌編、SFというよりかるーいコントのような作品である。もちろん、短く軽いといっても心配は無用、そこはフレドリック・ブラウンのこと、ありがたいことに、クスリと笑わせてくれる。

 ビル・ガリガンの私書箱には手紙が六通入っていた。だが封筒を一瞥しただけで、どれも小切手でないことが彼にはわかった。漫画になりそうなネタを、ギャグ作者のタマゴが送って来たもの、十中八九ものにならないのだ。
 彼はそれらの手紙を開こうともせずに、煉瓦造りの小屋に持って入った。この小屋を彼はスタジオと称している。彼は自慢にならない帽子を二芯の石油ストーブの上にポイと投げた。そして食卓兼製図机にしているガタガタのテーブルの前の椅子に腰を下ろして、椅子の脚に自分の脚を巻きつけた。
 この前、作品が売れてからずいぶんたつので、金になりそうなネタがこの中に入っているといいがと   あえて期待はしていないが   彼はそう願った。奇跡は起こるものだ。
(小西宏訳)


邦訳は、短編集『未来世紀から来た男』(1963)、創元文庫。
250ページの本に約40篇が収録されている。短い掌編のような作品が多い。ショートショート集と言ってもいい。ゆるーいのだが、それでいて、「新鮮なアイデア、簡潔なプロット、意外な結末」を備えていて飽きさせない。全般にブラックではあるがシニカルではなく、格調は低いが軽快さは高い。ちょっと電車で一時間くらい出かけるときに持っていくのにちょうどいい。星新一さんの作品がシニカルすぎて辛いと感じるような軟弱な読書子にはぴったりだと思う。50年も前の作品で、古めかしいところも零ではないが、それも含めて良きSF小説の雰囲気を醸し出している。古典だと思えばその古めかしさも魅力に変わってしまうのである。



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879. マージョリー・ボウエン 看板描きと水晶の魚 (画家小説百選)

短篇小説日和


マージョリー・ボウエン (1886-1952) の「看板描きと水晶の魚」、
邦訳は西崎憲・編訳のアンソロジー『短篇小説日和: 英国異色傑作選』に所収。
文庫版で30-40ページほどの短篇であるが、独特のダーク・ファンタジー風の味わいが魅力的である。

「ドアの上に掛かっている看板は素晴らしいものじゃないか。あれほど見事な絵を見たのははじめてだ。色合いも口で云えないほど素晴らしい。あれはきみが描いたんだろう?」
「そうです、わたしが描きました」大して面白くもなさそうな口調でルシアスが応じた。
「ああいう物が欲しい」
ルシアス・クランフィールドは手を擦りあわせるのを止めた。
「同じ絵柄の?」
卿は眼を細めた。
「あの題材は変わっている。あの絵柄は何からとったのかね」
「人生からです」看板描きは云った。
(西崎憲訳)


主な登場人物は、ルシアス・クランフィールド(看板描きの男)と、フォンテイン卿の二人。
"登場人物"と書き、"二人"と書いてしまったが、実際には "怪しのもの" かもしれないと書いておいたほうがよさそうだ。
さらに看板描き(The Sign-Painter)とも書いたが、この男がほんとうにPainterなのかどうかもわからない。つまり、全体にようくわからない奇妙な設定の物語なのである。

わかるのは、この小説の味わいが極めて独特だということで、同じイギリスの同じ時代に黄金期を迎えた"怪奇小説"の作家たちとも違うし、さらに古めかしいゴースト・ストーリーとも、後のラヴクラフトやダーレス風の恐怖小説とも異なる。では何か?と言われても、それはわたしの方が訊きたいくらい。あえて言えば、ずうっと新しい時代のジョナサン・キャロルのダークさに似ているかなあ?そんなことを思った。



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878. オスカー・ワイルド ドリアン・グレイの肖像 (画家小説百選)


Oscar Wilde



ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」(1891)が、示そうとしていることは明瞭である。
作品の冒頭に"画家の序文"という文章が掲げられていて、ドリアンの肖像画を描いたバジル・ホールウォードがこの物語の主題をストレートに語ってくれているからだ。

「あんなすばらしい人間が年をとってしまうとは、なんという傷ましいことだ」 歎息まじりにワイルドが言った。
「まったくだ」とわたしは答えた。「もし『ドリアン』がいつまでもいまのままでいて、代りに肖像画のほうが年をとり、萎びてゆくのだったら、どんなにすばらしいだろう。そうなるものならなあ!」
(福田恆存訳)


極言すれば、この物語は、ほんとうにそれだけの話である。
ただそれだけの話を、文庫版で、約300ページの小説に仕立ててゆく。作家のそのみごとな手腕や遣り口を、ただ愉しめばいいのである。最近、円城塔の作品を読んだりしているものだから、どうもこころが捻くれてしまっていけない。すべての小説がこんなふうに冒頭で主題を明らかにし、そしてその通りに物語が進行していくのだとしたら、どんなに読者は楽だろうか。「ドリアン・グレイの肖像」はそんなことを考えさせてくれる小説である、かもしれない。


この小説は、サイレント時代を除いて、三度、映画化された。
ポイントは、”ドリアン”役を誰が演じるかというところだろうか。
09年の作品ではベン・バーンズ、70年はヘルムート・バーガー、45年はH・ハットフィールドが演じている。
いずれも美貌の主人公役にふさわしいと言えるのかもしれないが、原作の魅力と比較するとどうしても違和感が残ったりする。それだけ小説のもつ力が強かったということか。
ちなみに、日本では96年に宝塚歌劇団が舞台化している。
ドリアン役は、紫吹淳である。
ああ、天海さんならともかく!




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☆ 691B. San Marco Museum (Stufen und Museum)

Fra Angelico,San Marco Museum (4)



The subject of today is, "look up the stairs."
Of course, on that point is a picture there, the picture is trying to welcome us. Or, picture is trying to refuse us.
Whether in the case of either, when I looked up at the stairs, why do heart tremble?

One example is the painting titled "Annunciation" in San Marco Museum.
Or, it is a "Tiepolo" of the Metropolitan Museum of Art. Or, it is "Nike of Samothrace" in the Louvre.
When we'll see a picture of the top of the stairs, why do heart tremble?



今日のテーマは、”階段の上を見上げる”、 である。
もちろん、そこには絵があって、ぼくたちを迎えようとしている。或は、ぼくらを突き放そうとしている。
どちらの場合であるにせよ、階段の上を見上げたとき、なぜこころがそんなにも騒ぐのか?

恰好の例が、サンマルコ美術館(フィレンツェ)のフラ・アンジェリコが描いた『受胎告知』(1437-46年頃)の絵である。あるいは、メトロポリタン美術館のティエポロである。もちろん、ルーブルのサモトラケのニケの彫刻を例にとってもいい。なぜ、ぼくらは、階段の上の絵を見あげるとき、そんなにこころが騒ぐのか?




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