520. 鉢かづきの少年 (Today's Soup)

エーミール
(Björn Berg/Astrid Lindgren,「Emil i Lönneberga」,1963)


鉢かづきの少年の名は、エーミールである。
産みの親はヘッセでもケストナーでもないとだけ書いておこうか。
もちろん、お伽草子とも、シンデレラとも関係がない。

彼は、今、スープ鉢を頭にかぶっている。
鉢には花模様が描かれている。鉢の値段は、当時のお金で、4ドル、いや4ポンド、いや違うな単位は何だっけ?わからないから、まずまずの値段をしたと書いておこう。

鉢をかぶった理由は、ひょんなことからである。
くだらない理由である。少年らしい理由であると言えなくもない
一方、鉢を脱げないのに理由はない。ただ脱げないのである。

物語の結末は至って単純だ。
病院に行って取ってもらおうとした瞬間に鉢が割れて取れてしまうというのだから。大人には、物足りないくらいと言ってもよい。
せめて、割れた鉢からはいっぱいの宝物が出てきましたとさ、とはいかないものだろうか。



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519. 世界は牡蠣スープのもの、あるいは牡蠣でいっぱいのスープ

Avram Davidson,Or All the Seas with Oysters1958


「世界は牡蠣スープのもの、あるいは牡蠣でいっぱいのスープ」(原題:The World's My Oyster soup,Or All the Soups with Oysters,2015)は、ロンドンで出版されるや否や、作者の意図とは遠く離れて、大きな社会的問題作としてさまざまなメディアのレビューでまるで無力な魚貝類のように俎上に載せられることとなった。問題とされたのは、主に三つの点が挙げられる。一つ目は、オイスターカードによる購入に限定されていたこと、二つ目は、これが戯曲なのか(シェイクスピアへのオマージュ)、小説なのか(デイビッドスンのパロディ)、音楽なのか(クリムゾンのコピー)、が不明であったこと。三つめは、購入後、シュリンク袋を解いても中身は何も出てこなかったこと、である。なお、作者はリュウ・アーチャーと推定されている。



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518. スープポットのはなし (Today's Soup)

Flying Trunk,Vilhelm Pedersen illustration
(「Flying Trunk」 1839,Vilhelm Pedersen)


アンデルセンの「ひこうかばん」(1839)を読んでいる。
「空飛ぶトランク」という邦題もあるようだが、わたしはこちら(ひこうかばん)が好きだ。
Vilhelm Pedersenの絵も、大のお気に入りである。

ところでスープのはなしだ。正確には、スープポットが語るはなしなのだが。
作中で、スープポット (青空文庫・楠山正雄訳では「石のスープ入」)が台所の仲間たちに向かって話し出すシーンがある。これがとっても面白いようで、やんやの大喝采。評価コメントを見てみると、『いいだしがすてきだわ』とお皿たち、『話じょうずだ』と毛ぼうき。最後にはこんな光景に至る。

スープ入は話をつづけましたが、おしまいまで、なかなかおもしろくやってのけました。
お皿なかまは、みんなうれしがって、ちゃらちゃらいいました。ほうきは、砂穴からみどり色をしたオランダぜりをみつけてきて、それをスープ入のうえに、花環のようにかけてやりました。
(楠山正雄訳)


いかにも楽しそうな光景である。わたしもいい記事が書けたときは花環くらいほしいものだ。なんてことはともかく。
肝心なことは、(哀しいことに、) このスープポットの話の中身については、全く書かれていないということである!
思わずエクスクラメーションマークを使いたくなる気持ち、わかってもらえるだろうと思う。
『さて、東海は、デンマルク領のぶな林で――』という書き出しで始まるこの物語、いつか誰かがどこかで書き継いではくれないだろうか。



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517. スープ皿のある静物 (Today's Soup)

Chaim Soutine still-life-with-soup-tureen1916
(Chaim Soutine 「Still Life with Soup Tureen」1916)


シャイム・スーティン(1893-1943)は、ロシア出身の画家。
20歳でパリに来たものの、貧しいと同時に"野生児"のような言動から同じ画家たちともなじめなかったらしい。そんな中で数少ない友人が、モディリアーニとフジタだったという。

もちろん、わたしがスーティンの名を知ったのは、モディリアーニが描いた彼の肖像画を見たのが最初である。     その肖像画は、4枚あるらしい。絵を見ると、"こちら"を見るスーティンは表情が乏しいものの、同時にその視線には優しさも感じる。モディリアーニに対する感情がわかるような気がするのである。
その肖像画の当時のスーティンの作品の一枚が上の画像である。肖像画のなかの彼と同じように、なにか絵の表情の乏しさは感じるものの、一方で穏やかで優しい感情も伝わってくるように思えるのである。


Chaim Soutine the-table1919
(Chaim Soutine 「The Table」, 1919)

しかし1920年前後から、スーティンの絵は大きく変わっていく。
同じようなテーマで静物画を描いても色調は暗く構図は大きく歪んでいる。
その歪みは、エゴン・シーレの世界のようでもある。
あるいは、モディリアニの死を悼んでいるのだろうか。



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899.トルーマン・カポーティ 無頭の鷹 (画家小説百選)

夜の樹



「無頭の鷹」(1946)は、カポーティが二十代で書いた作品のひとつ。
邦訳は、新潮文庫版の短編集「夜の樹」や、文春文庫「誕生日の子どもたち」などに所収。

  彼女の唇は、ひびわれてかさかさになっている。何と切り出したらいいのかわからずに震えていて、まるで言語障害にかかっているようだ。目は、ゆるくはめこんだおはじきのように眼窩のなかでくるくる動いている。その、おどおどして内気な様子は子どもを思わせる。「絵を持ってきたんです」彼女はいった。「ここは、絵を買って下さるんでしょう?」
  それを聞いてヴィンセントの微笑はこわばった。「うちは絵を展示するところです」
  「自分で描いたんです」彼女はいった。その耳ざわりな、不明瞭な発音の仕方は、南部の人間に特有のものだった。「わたしの絵です    わたしが描いたんです。ある女性に、このあたりに絵を買ってくれるところがあると聞いて来たんです」
(川本三郎訳)


登場するのは画廊に勤める青年(ヴィンセント)と、そこに訪ねてきた少女(DJ)の二人。
作品のテーマは、いつものカポーティと同じ、イノセンス。
そしてわたしが説明できるのは、ここまでである。あとは物語の雰囲気を感じ取ればいいだけ。

100人が読めば、99人までが読み違えるだろうというこの短篇、なるほど名作というのはそういう幻想に支えられているのかもしれないが、わたしにしたってそんな作品についていったいどんな説明ができるだろう。ただ、ひとことだけ書けるとしたら、無垢なる少女はいつも不穏の兆候として現れてくるということくらいか。バルテュスの少女は、今まさに天使から少女になるゆっくりとした瞬間に存在しているのだが、カポーティの少女はもっと不気味な存在であり、もしかすると存在すらしていない可能性がある。そんなふうに思えるのである。おっと読み違えたかな。




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516. パブリック・スープ・キッチン (Today's Soup)

The Public Soup Kitchen 1883
(Vincent van Gogh「The Public Soup Kitchen」1883)


アムステルダムのゴッホ美術館には、彼がオランダ時代に描いたスケッチや習作のような小さな作品が幾つも遺されている。「パブリック・スープ・キッチン」を描いた何枚かの絵も、そのなかに含まれていた。
上の画像もその一枚である。手紙に添えられた小さな絵であるが、強くこころに沁みる。
当時、画家は30歳であった。



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515. チキンスープがぼくらにとって必要な理由 (Today's Soup)

Franny and zooey


たしかにぼくたちは誰もが何年にもわたって「何か栄養になるものを身体に入れなくて、どうして力やなんかがつくものですかね。」と言われ続けてきたようなそんな存在である。そんなぼくたちをしても、チキンスープがぼくらにとって必要な理由については長い間、知ることがなかった。そう思うのである。

  これより一分半ぐらい前、フラニーは、「おいしいあったかいチキン・スープ」を持っていってやろうかという母親の、ここ十五分の間に四度も繰り返された申し出の言葉を、震えているのが゛はっきり分かる声で拒絶したばかりのところだった。(中略)
  グラース夫人は坐り直すと溜息をついた。どんな場合でも、彼女は、チキン・スープを拒絶されると必ず溜息をつくのである。しかし彼女は、長年にわたり、子供たちの病気の水路を巡邏船であちこち巡航し続けてきたようなものだから、この溜息も決して屈服のしるしではなかった。すぐさま彼女は口を開いてこう言った。「何か栄養になるものを身体に入れなくて、どうして力やなんかがつくものですかね。」(中略)

  「フラニー、きみに言うことが一つあるんだ。ぼくが本当に知ってることだ。逆上したりしちゃだめだぜ。べつに悪いことじゃないんだから。きみがもし信仰の生活を送りたいのならだな、きみは現にこの家で行われている宗教的な行為を、一つ残らず見すごしていることに今すぐ気づかなければだめだ。人が神に捧げられた一杯のチキン・スープを持っていってやっても、きみにはそれを飲むというだけの明すらない。この精神病院にいる誰彼のところへベシーが持ってゆくチキン・スープは、すべてそういうスープなんだぜ。だからぼくに知らせてくれ、ぼくに知らせてくれよ、きみ。(中略)神に捧げられた一杯のチキン・スープが鼻先に置かれてもそれと気がつかないというのに、本物の信心家をどうやって識別するつもりなんだ? それを知らせてもらえないかな?」
(J.D.サリンジャー、「ゾーイ」、野崎孝訳)


サリンジャーの『フラニーとゾーイ』は、『フラニー』(1955)という短篇と、『ゾーイ』(1957)という中篇が合わせられて一冊の本になっている。
『フラニー』はそれ自体が見事な作品であると同時に、『ゾーイ』という作品のための導入部のような役割を果たす。そして、『ゾーイ』は、そのほとんどが兄妹の会話で占められるという少し変わった構成になっている。   傷ついて帰って来たフラニーが部屋に閉じこもってしまう。そんな彼女にゾーイが話しかける。引用したのは、そんな場面のひとつである。




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514. キャベツの煮汁 (Today's Soup)

cabbage soup (2)


毎日11時頃、少し早目の昼食といえばいいだろうか、アールズコートの駅前のパブに入る。
注文するのはいつも「今日のスープ」ってやつである。日替わりのスープにパンがついている。
このシンプルさがなにより。余分なものを望むとそこはイギリス料理である。叶えられることはない。

その日はキャベツのスープだった。
うーむ、これは。いちばん廉いメニューだといってもさすがにこれは貧弱だ。
チャーリー・バケット君なら "キャベツの煮汁" と呼んだかもしれない。

They are forced to subsist on bread and margarine for breakfast,
boiled potatoes and cabbage for lunch,
and cabbage soup for supper.

(ロアルド・ダール「チャーリーとチョコレート工場」,1964)


なにしろバケット家の食事ときたら、夕食はいつも"cabbage soup"ときてる。
それに比べりゃこちらはマシか。
ともかくパンがついている。

なあんてぐだぐだぐだぐだ呟いて、
ぱくぱくキャベツを食べてたら、
ロバに変身してしまうかもしれないよ。




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513.土のスープと草の列 (Today's Soup)

(C) 2012「グスコーブドリの伝記」製作委員会,ますむらひろし
((C) 2012「グスコーブドリの伝記」製作委員会/ますむらひろし)


宮沢賢治の『春と修羅』(1922-23)を読んでいる。
賢治の作品で、「スープ」が登場してきてほしいと思うなら、銀河鉄道の夜かグスコーブドリの伝記を読んだほうがいいんじゃないのという気がしないでもない。ますむらひろし版のアニメでは、ジョバンニやブドリたちがトマトスープを飲む場面があったはずだから。いやでもしかし、(アニメとは違って、)賢治の作品にはそんなシーンはなかったような気もするのだ。


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(「春と修羅」、序)


それなら、ということで、この美しい序文から始まる『春と修羅』の方を読み返している。
すると、詩集のなかの「青い槍の葉」という作品の中にお目当ての言葉を見つけるのである。
(ちなみに「青い槍の葉」とは、田圃の稲の穂のことを指す)


青い槍の葉
(mental sketch modified)

  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲は来るくる南の地平
そらのエレキを寄せてくる
鳥はなく啼く青木のほずゑ
くもにやなぎのくわくこどり
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲がちぎれて日ざしが降れば
黄金(キン)の幻燈(げんとう) 草(くさ)の青
気圏日本のひるまの底の
泥にならべるくさの列
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲はくるくる日は銀の盤
エレキづくりのかはやなぎ
風が通ればさえ冴(ざ)え鳴らし
馬もはねれば黒びかり
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲がきれたかまた日がそそぐ
土のスープと草の列
黒くをどりはひるまの燈籠(とうろ)
泥のコロイドその底に
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
りんと立て立て青い槍の葉
たれを刺さうの槍ぢやなし
ひかりの底でいちにち日がな
泥にならべるくさの列
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲がちぎれてまた夜があけて
そらは黄水晶(シトリン)ひでりあめ
風に霧ふくぶりきのやなぎ
くもにしらしらそのやなぎ
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
りんと立て立て青い槍の葉
そらはエレキのしろい網
かげとひかりの六月の底
気圏日本の青野原
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)


それにしても、”土のスープ と 草の列” である。
賢治とスープ が出会うとしたら、この一節しかなかったと、そんな気がしないだろうか。


  

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512. タマゴテングタケ (Today's Soup)

Joyce Carol Oates The Corn Maiden and Other Nightmares  Murder on The Menu


ジョイス・キャロル・オーツの書いた「タマゴテングタケ」(1997)という短篇を読んでいる。
察しの良い読者ならばタイトルを見てすぐに "ははあん" と頭の上にピカリと電球マークを掲げたかもしれない。そうそのとおり、この小説は、毒キノコ入りスープにより殺人を企てるはなしなのである。

  毒キノコを微塵切りにして、相手が食べることになっている食べ物に混ぜることを想像してみて欲しい。犠牲者は楽しく食事をし、そしてその後、犯人が遠くに姿をくらました頃に、死ぬだろう。殺されたという明らかな痕跡はどこにも残らない。傷も痣も、出血もないし、骨も折れてはいない。病気か内因性の卒中や発作で死んだといことになるだろう。現代医学が発達するまでは、まったく解明できない難病が数多くあり、誰も、病気なのか故意に毒を飲まされたのかを見極めることはできなかった。
  こういう訳で、毒は殺人の手段として好まれるようになり、その件数が増えるにつれて状況は逆転した。毒殺が単なる病死と間違われるのではなく、病気による死がたびたび故意に毒殺されたとみなされるようになったのである。現代までの長い間、きゅうしした有名人、とくに歳もとっていないのに死んだ者は、敵から毒を盛られたのではないかと疑われた。たとえ、長患いの後に死んだとしても、時間をかけて毒を飲まされて死んだと思われることがよくあった。(中略)
  しかし今日では、現代の化学のおかげで、状況はずいぶん変わってきている。病理学者が、細心の注意と確実な方法で毒物の痕跡を見つけ出し、慎重に検死を行いさえすれば、毒殺の被害者が、病気で死んだのと間違われることはほとんどない。その一方で、現在は昔よりずっと強い毒が手に入る。おそらく、一万五千分のオンスのボツリヌス菌の毒で人ひとりを殺すには十分だろう。
(アイザック・アシモフ、『Murder on The Menu』(1984)のための序文、東 理夫訳)



毒殺は人類史上二番目に古い殺人法であるという説がある。実際に古今東西のミステリにおいても毒殺事件は極めて多い。アシモフ博士が言うように、現代医学が発達するまでは毒殺は極めて効率の良い殺人法であったのだろう。
しかし、時代は変わってしまった。今や、誰もむざむざ殺されていやしない。毒入りスープを気づかずに飲んでしまう人間はよほどのうっかり者かもしくは味覚音痴だとみなされてしまう。仮に毒殺に成功しても、現代の病理学者や科捜研のマリコさんの手にかかればすぐに死因があばかれてしまう。毒入りキノコスープなどもはや絶滅危惧種と考えておいたほうがよいらしいのである。

オーツの「タマゴテングタケ」という作品に戻れば、案の定、殺人は不首尾に終わる。
おっとそれは"ネタバレ"ではないかと非難されるのは本意ではないのできちんと書いておこうと思う。
この物語は、殺人物でもミステリでもなく、ほんとうは "双子譚" の名作として記憶されるべき作品なのである。



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