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547. 再掲  Google Logo – October 31, 2013 (Today's Soup)

googleLogo20131031a.jpg


ハロウィンの日のグーグル・ロゴである。
去年は、お待ちかねの 「魔女のスープ」 ヴァージョンであった。
今年も再び 「魔女のスープ」 が出てくるという可能性はあるだろうか?
10月31日がたのしみである。



PS.(2014/10/31)

Google Logo、
なんと嬉しいことに今年も「魔女のスープ」ヴァージョンが出てきました!

googlelogo.jpg


殆んど奇蹟の如き僥倖、というと大袈裟か^^
来年もたのしみですlol



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584. 彼女はスープに息を吹きかける、小熊のようにスープをすすりながら笑う (Today's Soup)


Julio Cortázar


フリオ・コルタサル (1914-1984) のこの短篇では、「温かい食べ物だけでこれだけ幸せになる」という文章とともにスープが登場する。いわば ”こころにもからだにも優しいスープ” というありふれた登場の仕方である。しかし、そこはそれコルタサルのこと、小説の方は決してありふれたものでは終わらない。   

小説の主人公は、マルセロと、リナの二人。雨の夜、男は、ヒッチハイカーの少女と出会い、小さな町まで車に乗せていく。ここから物語は始まり、翌日、二人が分かれていく場面で終わる。なんだか、よくある設定のような気もするが、そこはそれコルタサルのこと、決してありふれたかたちでは終わらない。とてもみごとに物語は閉じる。

名はキントベルク、直訳すれば子供の山、見方によっては親切な山、優しい山、それはともかく、夜降りしきる怒涛の雨に顔を洗われて町へ到着してみると、外では拳と爪が打ち続けていることもすっかり忘れる気になって、ようやく場所と呼べるところ、服を着替えられる、風雨を凌ぐことのできる場所に落ち着いた。銀のスープ鉢に入った温かいスープ、白ワイン、そしてパンを切って最初のひとかけらをリナに渡すと、オマージュでも捧げられたように、実際にオマージュなのだが、彼女はそれを受け取り、何のためなのか、上からスープに息を吹きかける、その時揺れながら少し舞い上がった彼女の前髪がなんとも美しく、手とパンに撥ね返された息がまるで小さな劇場の幕を吹き上げたよう、その瞬間からマルセロはほとんど、リナの考えていること、ずっと微笑を浮かべて息を吹きかけながらおいしいスープをすするリナの映像と記憶、そのすべてが舞台の上に現れるのを待ち受けたほどだった。
 もちろん、子供のように平らな額はそのまままったく動かず、最初は声だけがぽつぽつと彼女の人柄を滴らせ、マルセロはそれを手掛かりに少しずつリナに近づいていく。例えば、出身はチリ、アーチ―・シェップのメロディーを口ずさみ、ヒッチハイクと、干し草小屋や若者向けの安宿で寝泊まりを繰り返していたせいで薄汚れた服に、噛み痕が少し残ってはいるがこぎれいな爪を撫でつけている。青春時代なんて、リナは小熊のようにスープをすすりながら笑う、きっともう想像もつかないでしょう、化石、ねえ、ロメロのホラー映画に出てくるさまよえる死体みたい。
ロメロとは何者か、初めて聞く名前に、マルセロは声に出して質問しかけるが、このまま話させておいたほうがいいだろう、温かい食べ物だけでこれだけ幸せになる様子を見ているほうが楽しい、さっきだって、火が入るのを待ちかねた暖炉付きの部屋を見て、嬉しそうな顔をしていたじゃないか、・・・
(「キントベルクという名の町」、寺尾隆吉訳)


「キントベルクという名の町」(1971年頃) は、短編集 『八面体』(1974) に所収の一篇。
訳者によれば、この短編集は、”文学青年コルタサル” が残した最後の短編集であるとしている。最後、というのは、1970年代半ば以降、コルタサルは”政治的作家”へと大きく変貌していくことになったからである。



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583. 巨匠とマルガリータとスープと (Today's Soup)


ブルガーコフの 「巨匠とマルガリータ」 (草稿1928-36、出版1967)、
・・・モスクワの街を跋扈する悪魔のヴォランドと珍妙な手下たち、彼らに操られるモスクワ作家協会の会員たち、同じく翻弄される巨匠とマルガリータ、作中作の物語に現れるキリストとローマ総督ポンティウス・ピラトゥス、‥とこんなふうに登場人物を書き連ねていくだけでこころが踊る。傑作小説というのはそういうものではないだろうか。

しかしこの小説を読み進めるためには慎重な姿勢が必要である。
ストーリーの展開が読めないとか、わけのわからぬまに新たな登場人物が増えているとか、そんなことに愚痴をいうつもりはない。しかし、てんで見当もつかない暗喩や皮肉、見当どころか気がつきもしない裏の意味や風刺のことばが、たぶんそこいらじゅうに転がっているのだとしたら、ぼくらはそれをどう読めばいいのだろうか。     例えば、大好きな野外レストランの場面 (第五章) から幾つかの文章を引用してみる。

「今夜はどこで食事をするつもりだね、アムヴローシイ?」
「聞くだけ野暮だよ、もちろん、ここさ、フォーカ!」
(水野忠夫訳)


いったい誰が、いきなり登場した二人の男の名前について、 (伏線も無ければ訳注もないという条件で、) アムヴローシイとは不死を得られる神々の食べもののことであるとか、フォーカとはロシアの寓話 「デミアンの魚スープ」 の主人公の名前を模したものであるとか、そんなことが理解できるというのだろうか! いやまあこれがただのレトリックの問題であるならばそれはそれでいいのだが。


そして真夜中の十二時きっかりに、一号ホールで、なにやら大音響が轟き、金属製の音が響き、その音は跳びはねるようにひろがりはじめた。そしてすぐさま音楽に合わせて、甲高い男の声が 「ハレルヤ!」 と絶叫した。有名なグリボエードフのジャズ・バンドが演奏を開始したのだ。汗びっしょりの顔が急に輝きだし、天井に描かれた馬どもも活気づき、ランプの光もひときわ明るさをましたみたいに思われ、そして突然、つながれていた鎖が解き放たれたかのように二つのホールにいた人々が踊りはじめ、それにつづいて、テラスにいた人々も踊りはじめた。
(中略)
ウェイターたちは汗びっしょりになって、踊っている客たちの頭上高く、滴のたれるビールのジョッキをかかげて運び、しわがれた声で、「失礼します、お客 さま!」 と突っけんどんに叫んでいた。どこかで、両手を口もとに当ててメガフォンを作って、客が注文していた、「北極海スープをひとつ! ビーフを二つ、 王様風チキンをひとつ!」 と。 いまはもう、甲高い声は歌っているというのではなくて、「ハレルヤ!」 と吠えているみたいだった。ジャズ・バンドの金色に輝 くシンバルを打ち鳴らす音が、ときどき調理場の洗い場へと通ずる傾斜面に皿洗い女たちが乱暴に投げ入れる汚れた食器のぶつかる音でかき消されることもあった。要するに地獄である」
(水野忠夫訳)


場面は、いきなりの狂騒状態である。地獄の次には幻想がその出番を待っている。
こうなれば、登場人物の名前の謂れなどたいしたことではないということになり、わたしも背中の荷物をひとつ降ろしたようにほっとする。 もちろん、ここでは言葉もレトリックもまったく問題にならない。ただただ文体とストーリーの持つ力に引きずられながら物語を最後まで読み通すだけだ。 幸いなことがひとつ。この物語はみごとに完結する。




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582. 優しい友人アルフレード (Today's Soup)


Menudo,a traditional Mexican soup


小説の登場人物について言うと、こんな人物ならぜひとも友人になってほしいと思うことがある。
いわば理想の"友人像"である。
すぐに思い浮かぶ人物をひとり挙げるとすれば、まずは『ワトソン君』ということになるだろうか。
・・・ジョン・H・ワトスン、医者であり、シャーロック・ホームズの友人であり、伝記作家の彼である。優しく、愛情が深く、誠実で、正義感にあふれ、純粋で、勇敢で、そして気のいい酒飲みである。

 アルフレードがやってきて、椅子を引いてテーブルの僕の隣に座った。彼はその大き絵描きの手を僕の肩に置いた。僕はまだ震えつづけていた。彼の手は僕の体の震えを感じ取ることができた。
「おいおいどうしたっていうんだよ?お前もいろいろと大変だとは思うよ。まあ相当にきついわな、それは」それから、よしひとつメヌードを作ってやろう、と彼は言った。「神経が休まるよ」と彼は言った。「気分がすっと収まるからさ」メヌードを作るための材料はばっちり揃ってるんだ、と彼は言った。それに俺どうせそろそろ作らなくちゃなって思っていたところなんだ。
(「メヌード」、村上春樹訳)


レイモンド・カーヴァーの短篇「メヌード」(1987)、に登場する画家のアルフレード君もまた、理想的な友人像のひとりとして挙げることができるだろうと思う。
物語の中で、中年男の"僕"が、妻の入院やらなにやらで、すっかり自分のバランスを失ってしまい、どうしようもなくおかしくなっていたときに、このアルフレード君は"僕"の神経を休めようと、真夜中であるにもかかわらず台所に立ってメヌード(メキシコ風の牛の内臓のスープ)を作ってくれるのである。

ね、ワトソン君に負けず劣らずイイヤツだなって思うのも当然でしょう?
以上、報告します。




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581. 罰としてのスープ (Today's Soup)


筒井全集13


さすがは筒井康隆さんの作品!
古今東西、 ”罰としてのスープ” を描いた小説は唯一無二、
だろうか?

・・・男は、ちょっと電車を途中下車したばかりに、無賃乗車などと謂れのない中傷を受け、さらに不当な罰を受けなければならないという破目に陥る、これはそんな物語である。

若い駅員が、仰向けに横たわっている私の両腕を、しっかりと押さえつけた。母が私の右足を、弟が私の左足を押さえつけた。中年の駅員は鍋を電気焜炉からおろし、ゆっくりと持ちあげた。そして立ちあがった。
「さあ、小説屋の先生。口を大きく開きなさいよ。さもなきゃあスープが顔にとび散って大火傷、ふた眼と見られぬ顔になるよ。それじゃ商売にさしつかえるだろ」中年の駅員は念仏を唱えているような口調で私にそういった。「さあ口を大きく開いて」
私は口を大きく開いた。
(筒井康隆「乗越駅の刑罰」,1972)


70年代当時、どこかの小劇団が不条理劇として取り上げていたかもしれない、そんな作品だなという気がした。(調べてみたら、90年代になってから映像化されていました)

おっと書くのを忘れてました。この短篇は、新潮社版・筒井康隆全集 第13巻、及び新潮文庫版・筒井康隆・自選ホラー傑作集 『懲戒の部屋』 に所収されている。    ホラー傑作集、ということは、これはホラーだったのか! などと今さら驚くのもおかしいが、そういえば、このスープの中身は・・・、
いや、わたしには、恐ろしくて悍ましくてスープの中身のことなんてとても書けない!!!!!  
  

PS. この小説は、1994年に和田誠監督で、オムニバス映画の一篇として映像化されている。
(→映画 『怖がる人々』 、第3話 「乗越駅の刑罰」 : YouTube、 Part1, Part2、 音量注意)





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580. 「魔性の女」物語


Cousine Bette,Huard
(「従妹ベット」のユロ男爵とアガト、シャルル・ユアールによる挿画)


バルザックの最晩年の作品 「従妹ベット」(1846) 、この長篇小説のなかで、もっとも好きな場面を引用しようと思う。    物語の後半、精魂尽き果てたユロ男爵が、昔の女を訪ね、しばしのあいだ屋根裏部屋にでもかくまってもらえないかと頼むシーンである。
これに比べると、その後に続く見事な結末も、ほんの付け足しでしかないような気がしてくるのである。

彼女はユロを、この前二人が最後に会った、あの豪奢なサロンに坐らせた。
「ねえ、ほんとうなの?」と、彼女は話をつづけた、「あなたがお兄さんと叔父さんを死なせて、家庭をめちゃくちゃにし、子供さんの家を二重抵当に入れ、その公爵夫人とやらとアフリカ総督府の公金までつまみぐいしたって話?」
男爵はしょんぼりとしてうなずいた。
「そうなの! 気にいったわ!」と叫ぶと、ジョゼファは夢中になって立ちあがった。「一切合財焼きはらっちまったのね! めちゃくちゃに豪勢じゃない! 偉大だわ! 完璧よ! あたしみたいにこんなふしだらな女だって、心意気に感じるものよ。・・・」
(オノレ・ド・バルザック 「従妹ベット」、平岡篤頼訳)


この場面がなければ、ユロ男爵は、ただの並外れた遊蕩者で終わっていたと思う。小説のタイトルに合わせて主役の座を従妹ベットに譲るか、稀代の悪女(ファム・ファタール)ともいうべきヴァレリーに翻弄されたまま舞台の袖に引っ込んでしまう三文役者にすぎなかったと思う。この場面があったおかげで、この小説を、一部でもあるにせよ ”男の側” に取り戻したのだと思ったりするのである。

ところで、この小説をバルザック版の「魔性の女」物語として読むとすれば、主役はまちがいなくヴァレリー (マルネフ夫人) である。しかし、彼女がファム・ファタールとして開花する前は、安っぽいアパートに住む下級官吏の妻で、野菜と隠元豆の煮汁とで味つけしたスープを縁のかけた皿によそって食べるような暮らしむきの、ただの美貌の女にすぎなかったのである。物語では、彼女が、そこから稀代の悪女にまでのしあがる過程が、魅惑あふれる通俗小説のように饒舌に綴られていく。



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579. シャガールの祝宴 (Today's Soup)


シャガール、The Feast of the Tabernacles1916
(Marc Chagall ,The Feast of the Tabernacles(仮庵の祭り),1916 )


シャガールが描いた 「祭り」 の絵を見ている。
シャガールは、仮庵の祭り (スコット) 、エステル記の祭り (プリム) 、贖罪の日 (ヨム・キプル) 、過越しの祭り (ペサハ) 、などのユダヤの祝祭日の光景を、やさしい視点で、落ち着いた色調で、そしてなによりもたのしさをまじえて、何点も描いている。

もちろん祭りには宴がつきものであり、食事や食べものもよく登場する。
仮に、テーブルの上にスープとパンしかなかったとしても、それがうれしき祝宴であることには違いないのである。



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578. スープでも飲みな (Today's Soup)


モラビア


「スープでも飲みな」は、アルベルト・モラヴィアの連作集 『ローマの物語』 (1954) の一篇。
この連作では、一貫して、ローマの裏町や郊外に住む”庶民”たちの生活が描かれている。
この短篇でも、登場するのは、中年の椅子職人の男とその妻と息子である。いわば、イタリア風の家族小説と呼べばいいだろうか。

その水曜日の午後には、わたしは帝政時代ふうの肘掛け椅子の繻子をはり替えて釘でとめながら、一人ひそかにわが身の不運を考えてはため息をついていましたが、そのとき電話が鳴り響きました。(中略)
「椅子屋のペリコリだな?」
「はい、さようでございます。毎度お引き立てをいただいております」と、わたしはお客さまからの電話だと思って、こう答えました。
「ああ」と、その胴間声が言いました。「ちよっと訊きたいんだがね、おまえはなぜ結婚したんだい、ペリコリ?・・・・・・おまえの歳になったら内儀(かみ)さんなんかもらわないもんだってことがわからなかったのかね? で、自分のことはどう思ってるんだい? 内儀さんから好かれているとでも思ってるのかい? かわいそうな間抜け男だな・・・・・・」
わたしはたちまちかっとなってしまいましたが、それというのもこの胴間声が、品のない言い方はしていましたが、そのときわたしを苦しめていた疑念をはっきりと言ってしまったせいもあったからでした。わたしは勢いこんで言い返してやりました。「いったい、おまえはだれだ?」(中略)
「正真正銘、友人からの忠告さ。スープでも飲みな (「しっかりしろ、元気をだせ」という意味がある) って」
(米川良夫訳)


邦訳は、白水社版の短篇集 『ローマの物語』 (1967) に所収。
この作品集には、地味ながら味わい深い短篇が並んでいて読みごたえがある。
同時に、モラヴィアの長篇小説、例えば映画化された「軽蔑」、「倦怠」などの作品が描いた世界と比べると全く違っていることに驚いたり、茫然としたりする。でも、心配は無用、スープでも飲めばすぐに立ち直るから。




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577. 手押し車で運び込まれてきた海亀 (Today's Soup)


バベットの晩餐会


「バベットの晩餐会」は、1987年に映画化されたあとで、日本では本が出版された。
アカデミー賞(外国語映画賞)を取らなければ、翻訳本が出なかったかもしれないとしたら、小説ファンはなんてついていたんだろうと思わざるをえない。物語のクライマックスというべき雪の日の晩餐会のシーンは、映像にもまして、小説 (ことば) のほうが美しいと思うのだがどうか。

その夜遅く、表のドアのベルが鳴った。マチーヌがドアを開けると、またも目の前に手押し車がきていた。あの老人がもうすっかり疲れてしまったものだからとでもいうように、こんどは赤毛の船乗りの少年が車を押してきていた。少年はマチーヌを見てばつが悪そうににやっと笑うと、なにやら大きなものを手押し車から持ち上げた。ランプの明かりで見ると、それは黒ずんだ緑の石のように思えた。ところが台所の床に置かれると、突然その石から蛇のような頭がぬっと現われて、その頭を左右に動かした。マチーヌは亀の絵を見たことがあったし、それに子供のころ、小さな亀を飼ったこともあった。だがこの亀はとてつもなく大きくて、恐ろしくてつついてみれるような代物ではなかった。マチーヌは、あとずさりすると、押し黙って台所から出ていった。
(イサク・ディーネセン「バベットの晩餐会」,1950-58、桝田啓介訳)


台所に運びこまれたこの海亀がこの後どこへ行ったのかは、書くまでもないだろう。ただし、派手な登場シーンの割には、祝宴の場ではそう目立つこともなかったという気がしないではない。でもまあ、他にもバベットが腕をふるったお皿が幾つも並んだのだから仕方がなかったのかな。



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576. スープ皿を落としかけている場面で発するような声 (Today's Soup)


On Chesil Beach


イアン・マキューアンの中篇、「初夜」 (2007)、
小説の舞台は1962年のイギリス、登場するのは大学を卒業したばかりの若い二人である。
エドワードとフローレンスは教会での結婚式を終え、海辺のホテルに落ち着いたところ。
付け加えておくと、エドワードは女性経験が少なく、フローレンスはセックスに対して恐怖と嫌悪感を抱いていた。物語は、これから、二人の新婚初夜の数時間を描いていくことになる。
・・・しかししかししかし、すこしばかり設定は変わっていても、間違いなくこれは、純然たる青春小説なのだろう。

それがどんなに恐ろしい誤りだったか、どうして彼女にわかっただろう? 間違ったものを引っ張ったのか? 強くにぎりすぎたのか? 彼は泣き叫ぶような声    一連の複雑な、苦痛に満ちた、跳ね上がる母音    を発した。喜劇映画で、ウェイターがあちこちによろけながら、高く積み上げたスープ皿を落としかけている場面で発するような声だった。
(村松潔訳)


引用部は、物語の半ば、ベッドシーンの場面である。
いつものように瑣末なところを取り出してしまったかもしれない。
しかし、この一節は、”スープ”という言葉を使ったまったく新たな用例として取り上げるのにふさわしい文章だと思ったりするのである。

ところで、この辺りの展開を見ていると、この小説がそれなりにハッピーエンドで閉じるとは想像できなかったなぁ。
以上、報告します。




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