701. リング・ラードナー、ハーモニイ (ぼくらの本が歌う時)

アリバイ・アイク


1920年代は、アメリカでは、「ジャズの時代」 と呼ばれた。
ここから、19世紀末まで時代をさかのぼると、ワシントン・アーヴィングやポオやトウェインがいて、1940年代くらいまで下ると、フォークナーやヘミングウェイやなどの作家が綺羅星のごとく現れてくる。
1920年代というのは、その中間の時期である。
そこにいた作家、ラードナー、ラニアン、アンダーソンなどの作品が、わたしは好きなのである。地味だが、そこにはたしかに人間が生きていて、あがいたり気取ったり笑ったりしながら、次の新しい時代に顔を向けているような気がする。

リング・ラードナー (1885-1933) の短編集、「アリバイ・アイク」 を読む。
(1978年、新潮文庫、加島祥造 訳)
ラードナーは、1920年代を中心に、スポーツ記者、コラムニストとして活躍するかたわら、短編小説を書いた。特に野球やスポーツを題材にした作品が多い。アメリカでは、短編小説作家として評価が高く、同時代のフィッツジェラルドに比肩するというような位置付けもあるらしい。


小説の中に登場するのは、こんな人物たちである。

 あらゆることにいいわけしなければ気が済まない野球選手、
 弟や母親まで床にのしてしまうボクシング選手、
 チームメイトから相部屋を拒否されるとんでもない新人外野手、
 どうしてもモチベーションが上がらない強打のボクサー、
 プロゴルファー兼作家を目指し日記を書き始めた16才のキャディの少年

いちばん大好きなのは 「ハーモニイ」(1915) という短編だ。
これはまちがいのない傑作だと思う。
こんな小説である。

    音楽好きの野球選手がいる。彼が好きなのはコーラスである。チームメイトとグループを組み、男声4部合唱をやる。試合の前後にはたっぷりと練習をする。この楽しみがなけりゃあ野球なんてやるものか。
ところが、あるシーズン、トレードで大事なメンバーがひとり欠けてしまった。これじゃ歌えない。なんとしても新しいメンバーを入れなくてはならないのだが・・・。

「いい話ですねぇ」 とぼくはありがたがって言った。 「レギュラーのポジションから落ちかけてる古手選手が、凡フライをあげた新米を見ただけで監督に推薦する。そしてその新米はチームにはいるやその古い選手のポジションを取っちまう!」 (中略)

「そしてこの話で一番に奇妙なのは」 とぼくはつけ加えた、「アートが後悔していない点ですね。彼とあの若者、実に仲よくやっているようじゃないですか」
「歌をうたえる人間は、誰だってアートと仲よしなのさ」
(加島祥造訳)


まず、設定が面白い。そこからの展開はだいたいナンセンスの方向に向かう。
軽妙なユーモアというより、じんわりとくる笑いである。けっこう話しっぷりはねちっこい。くすぐりの笑いではなく、それこそローブローのように効いてくる類のものである。
スポーツを描いているが、最近流行の美しくて峻烈なスポーツ小説とは対極にあるような作品である。
とにかく逞しく生きていかねばならないという人間のおかしさやかなしみであふれている。

ラードナーには、スポーツ以外のテーマを描いた作品もいっぱいある。
サリンジャーの 「ライ麦畑・・」 で引用されて有名になった 「微笑がいっぱい」 とか、老夫婦の夏旅行を描いた 「金婚式」 だとか佳品がたくさんあるので、スポーツ小説嫌いの方も困らせない。
作品集は、この新潮文庫版 (アリバイアイク) の他に、福武文庫版 (ラードナー傑作短編集) があるが収録作品数が少ないので物足りない。しかしどちらも絶版である。

いちばんいいのは、大きな図書館で、70年代に新潮社からでた短編集のシリーズ三冊を見つけることである。これなら、面白い作品を網羅している。
 「微笑がいっぱい」1970、新潮社
 「息がつまりそう」1971、同
 「ここではお静かに」1972、同

訳者によると、ラードナーの特徴は 「ユーモアと風刺」 だという。
俗語やローカル色の強い言葉をふんだんに使った 「ローブロー」 の作家だと書いてある。
実際には、今、読むと、そのユーモアや風刺が適度に風化されて、なにか奇妙な味の小説のように変わってしまっている。それでも、充分に、おかしくて、思わずにんまりとさせられてしまうような独特の視点と機智にあふれているのである




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589. 月の中の人 (Today's Soup)


スズキコージ01
(『まざあ・ぐうす』、スズキコージの絵、2014、復刊ドットコム社)


長新太さんと佐野洋子さんがいなくなってしまったら、ぼくらはどんな絵本を読めばいいのだろう?
そんなことを訊かれてもわたしには答えようもないが、わたし自身のことだけならかろうじて言うことができる、いまのところスズキコージさんの絵本を読んでたのしんでいます。

「The man in the moon」

The man in the moon
Came down too soon,
And asked his way to Norwich;
He went by the south,
And burnt his mouth
With supping cold plum porridge.


「月の中の人」

月の中の人が、
ころがっておちて、
北へゆく道で、
南へいって、
凝(こご)えた 豌豆汁(えんどうじる)で
お舌をやいてこォがした。

(まざあ・ぐうす/月の中の人、北原白秋訳,1921)


2014年、復刊ドットコム社から出版された 『まざあ・ぐうす』 は、北原白秋・訳、スズキコージ絵の大型絵本 (B5サイズ、200頁) で、76年の角川書店版を復刊したものである。
マザー・グースの最初の邦訳はこの白秋によるものだそうだ。
ほぼ100年が経つにもかかわらず、その訳は軽妙で洒落ていてそして独特である。
そこにスズキコージの絵が加わるというのだから、これはもうたのしいことこの上ない。
まさに愛蔵版というのはこういうものを指すのだろう。




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588. 煮込んでしまえば形もなくなる (Today’s Soup)


新井素子、ひとめあなたに


新井素子の 「ひとめあなたに」(1981) を読んでいる。
これは、”長編SFロマン”、と呼べばいいのだろうか?
長編でも、SFでも、ロマンでもないように感じるのは気のせいか??

物語は、一週間後、地球に大隕石が衝突する見込みで、地球も人類もすべて余命いくばくもないという設定。そんな状況の中で、女たちがどんなふうに動いていくのかを描く。
折りしも物語は、ひとりの女性がスープを作っている場面にさしかかったところ。

かちっ。ガスの火をつける。おなべに水をいれて。
赤いおなべ。ステンレスの。一年半、使ってきたけど、まだ新品同様よ。きれいにしておきたかった。一度使うたびに、自分でも神経質だと思うほど、しつこくみがいた。
コンソメ、いれるべきかしら。
少し悩む。
骨からうまくスープをとれる自身、ない。でも、この骨を捨てる訳にはいかない。
・・・いいわ。コンソメ、一つだけいれよう。それから骨と。
腕をきれいに洗う。

(第二章、「由利子  あなたの為に チャイニーズスープ」)


この引用部には、バックグラウンドミュージックというか、テーマソングのようなものが付けられている。
それは、荒井由美の 「チャイニーズスープ」(1975) という曲である。(→ YouTube、音量注意)

由利子という女性が、この曲の 『煮込んでしまえば形もなくなる』 という歌詞(フレーズ) を口ずさむところで章が閉じる。ただし、彼女が、何を煮込んでいるのかについては、あえて書かないでおこうと思う。それにしても、・・・なんて悍ましいんだ!

この辺りの描写は、気の弱い読者なら、とても正視なんてできやしない。
わたしにしても、眼を隠した指の隙間からこっそり覗き見するのがやっと。二度と読み返さないとこころに誓って本を閉じた。
でもそれ以来、気がつくと、♪煮込んでしまえば形もなくなる、と口ずさんでいたりする。・・・なんて悍ましいんだ!




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587. 蟾蜍が出て来た、皆で寄つてたかつて胡椒をふりかけたり、スープを飲ませたりした (Today’s Soup)


水葬物語


当たり前のことなのかもしれないが、短歌には ”スープ” という言葉はあまり登場しない。
それは何故か?などと訊くと妙なことを言うやつだと思われかねないので躊躇していたのだが、何にでも答えはあるものだ。 『岩波現代短歌辞典』 を見ると、飲食(おんじき) はプライベートな側面が強いので古典的和歌の世界ではあまり詠われることがなかったと書いてある。
では、現代短歌ではどうかとさらに訊いてみたいところだが、それはまあ自分で探してみればいいことだと思い直して今に至る。

短歌の魅力とは何か? などという今どき滅多に発せられないような質問にも答えはある、と思う。わたしなら、次のような文章を読み返すだけでユリイカ!と叫びだしかねないのだから簡単なものなのであるが。

 僕たちはかつて、素晴らしく明晰な窓と、爽快な線を有つ、ある殿堂の縮尺圖を設計した。それは屢々書き改められ、附加され、やうやく図の上に、不可視の映像が著著と組みたてられつつあった。その室・室の鏡には、過剰抒情の曇りも汚点もなく、それぞれの階段は正しく三十一で、然も各階は、韻律の陶醉から正しくめざめ、壁間の飾燈は、批評としての風刺、感情なき叡智にきらめき、流れてくる音樂は叙事性の蘇りとロマンへの誘ひとを、美しく語りかける筈であった。

(塚本邦雄 『水葬物語』の跋、1951)



さて、”スープ” についてである。
短歌にはあまり登場しないと書いたが、もちろん零ではない。
たぶん穂村弘にも俵万智にも一首くらいはあるはずだがそれは静置しておくものとして、まず次の歌を見てみることにしたい。

◇水原紫苑
はらからが春のスープにすくひたるかなしみの葉のかたかりしこと (『くわんおん』,1999)
一椀のスープのごとく注がるる神あれな冬、屈(かが)むけものに  (『びあんか』,1989)

◇葛原妙子 
ひとりなる食事をはじむすくひたるスープの中に鹿とゐる人  (『朱霊』,1970)
貝の汁に砂のこりしをこん日の憂鬱とせり雪ふれりけり  (『原牛』,1957)

◇塚本邦雄
はやき死を待たるることのさはやかに三月の芹スープにうかぶ  (『感幻楽』,1969)
百歳さして遙かならねば生姜湯を飲みさして讀むガルシア・マルケス(『詩魂玲瓏』,1998)


まさに、美しく語りかける三十一の階段がここにはあると思う。
塚本のこの二つの歌は魅力的ではあるが、この歌人の凄味あふれる作品群の中では、目立つものがない。“スープ”についていえば、二人の女性歌人の作品の方に、より魅かれるのである。


さて、最後に見てみたいのは、こんな作品である。
前述の歌と比べると、一世紀近く時代をさかのぼることになるが、決して古びていないと思う。
スープという言葉に連ねて、水原紫苑が「かなしみの葉のかたかりしこと」と詠ったこと、葛原妙子が「スープの中に鹿とゐる人」と詠ったことと同じように、至近距離から今に迫ってくるすごみがここにはあると思う。


しろがねの小さき匙もて蟾蜍スープ啜るもさみしきがため

北原白秋の 『桐の花』(1913)、第三章「庭園の食卓」に所収の一首である。
この歌には、まえがきとして、「蟾蜍 (ひきがへる) が出て来た、皆で寄つてたかつて胡椒をふりかけたり、スープを飲ませたりした」という文章が添えられている。




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586. kae kae kae kae kae kae kae kaek quak quak quak. (Today's Soup)


AConfederateGeneralFromBigSur,1964


ビッグ・サー、
太平洋岸のきり立つ崖の上のちいさな土地、
ここにリー・メロンとジェシー(わたし)は住みつき、そして相手のいない消耗戦をたたかう。
いや正確に言うと、相手はいた。
池の蛙である。
大群であった。
この蛙戦役がこの物語の重要な場面となる。
だから、作家は、この物語のことを「軍記」と呼んだそうだ。

 黄昏になると蛙たちは鳴きはじめ、夜どおし鳴き続けた。あんちくしょうら。二十五セント硬貨ほどの大きさしかない蛙たちだ。あの小さな池にいた何百、何千、何万、何億という蛙たちの鳴き声は粗朶を折るみたいに簡単に人間の心を狂わせてしまうことだってできる。
 リー・メロンも立ちあがって、細道に立っていたわたしのところへきた。「もうすぐ日が暮れる」と彼はいった、じっと池を見下して。池は緑色で、これといって危険な感じはしない。「ダイナマイトがあったらな」と彼はいった。
(中略)
 リー・メロンは立ちあがって、池に大きな石を投げ、「キャンベルのスープ!」と叫んだ。たちまち、蛙の声がやんだ。それでしばらく静かになるのだが、また間もなく始まる。リー・メロンは部屋の中に石ころをいっぱい積み上げておいた。蛙たちはいつも、どれかが一声がーと鳴くと二匹目がそれに続き、それから七五四二匹が続くのだ。
 池の中にいろいなミサイルを投げこみながら、リー・メロンが蛙たちに「キャンベルのスープ!」と怒鳴るのはおかしかった。それまでに、まず彼は蛙たちにありとあらゆる猥褻なことばを浴びせたが、そのあとで、的をよく定めて意思を投げながら、意味もない言葉を叫んでみることにしたのだった。
 リー・メロンには好奇心があるし、試行錯誤をくりかえすうちに、「キャンベルのスープ!」が蛙たちをもっとも怖れさせる言葉だとわかったのである。
(藤本和子訳)


R・ブローティガンの「ビッグ・サーの南軍将軍」(1964)、
作家が29歳で書き、最初に出版された作品である。
幾つもの断章を寄せ集めたようで、掴みどころがなく、とりとめのない小説、
と言ってしまうと身も蓋もないが、決して貶しているわけではない、そうではなくまったくの逆、
だからこそ面白い! わたしはそう言いたいのである。
ブローティガンは、最初の作品で、いきなり傑作をものにしたわけである。




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585. 羊をめぐる冒険・ラファティ版 (Today’s Soup)


Lafferty chantey


宇宙級のホラ話なら、カルヴィーノとラファティのどちらが好きなんだい? 
といつものように軽い調子で男は訊ねかけた。それが恐ろしい踏絵のような意味を持つ質問であることを、ぼくたちは誰も知らなかった。

ポリュペモスはないよりもはるかに悪い場所だった。
 とは言っても近づいてくる星は素晴らしい場所に見えた。爽やかな緑の草原! たしかに素晴らしそうだった! そこは田園世界だ、と便覧には書いてあった。ポリュペモス人たちは素朴な羊飼い連中だった。便覧によれば、羊と山羊を育て、チーズと乳漿を作り、スウィート・ミルクを飲んで、上物の羊肉や子羊肉を食べ、おそらくは羊毛をつむぎ、毛織りかフリースのテントで暮らして、木製のフルートで牧歌を奏でているという。(中略)
羊飼いたちは船乗りを <ドロヴァーズ・コテージ> まで連れて行った。緑の草原と牧草地には羊の群れが遊んでいた。
 羊? 本当に羊なのか?
 宿は酷いものだった。<ドロヴァーズ・コテージ> は宮殿ではなかった。だが暖房の必要はなかったし、必要なときには獣脂の蝋燭が灯された。太陽はまだ空に高かったが、乏しい夕食をふるまわれた。羊肉のようでもあったが、それにしてはひどく奇妙な味だった。それから、ポリッジ らしきものが出たが、おそらくは虫入りだった。
(柳下毅一郎訳)


R・A・ラファティの長篇、「宇宙舟歌」(1968) は、宇宙版オデュッセイアだと思って読めばいいのだそうだ。ロードストラム船長とその仲間たちが、さまざまな怪物に遭遇しながら、故郷までの帰路において辿る放浪と冒険の航海の物語である。

ラファティによればオデュッセイアはなによりも滑稽詩であるという、そしてこの作品も同じである。
引用したのは、物語の第五章、旅の途中で立ち寄ったポリュペモス (羊飼いと羊たちの星) をめぐる物語である。要約すれば、この章は、さしずめラファティ版・羊をめぐる冒険、か。
さまざまな困難と危険がまちかまえているが、幸いなことにここで命を落とすことはない、まだ次に第六章が待っているから。




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