707. 和声よりも、僕たちには対位旋律があればいい 


Gaudy_night1935.jpg
(ドロシー・L・セイヤーズ 「学寮祭の夜」,1935)


偏愛するセイヤーズの「ピーター・ウィムジー卿」シリーズ、
ピーター卿と音楽について書こうとすれば、"鳴鐘術"の登場する 『ナイン・テイラーズ』 (1934) を外すことはできない。しかし、わたしにはもっと魅せられた作品があった。それが 『学寮際の夜』 (1935) である。 理由は明快。二作とも傑作であることは同じだが、前者がただの素晴らしいミステリ小説であるのに対し、後者はそれに加えてすばらしい恋愛小説でもあるからである。

引用するのは、ピーターがハリエットに贈ろうと古いチェスの駒を買いに二人で骨董屋にでかけてきた場面。品物を包んでもらっている間に、店の隅にスピネット(ハープシコード)を見つけたピーターは、早速お得意のバッハを弾き、次いで古い歌曲をひきはじめる。

「・・・・・モーリィの『二つの声のための小歌曲』で知っているやつはあるかね? ・・・・・それじゃ歌おう、『見よ! 夜の明くる時』・・・・・どちらのパートでもいいよ    全く同じだから・・・・・ 『愛しき人は身を飾り』・・・・・G ♮ だよ、G ♮ 」(中略)
「こういうことこそが」テノールとアルトが絡み合い、最後を仲良くしめくくると、ピーターは言った。「音楽の骨であり肉なんだ。和声は人に委せるさ。僕たちには対位旋律があればいい。」

(中略;物語は進んで最終章のカレッジの音楽会の場面に移る。壇上では二人のヴァイオリン奏者がバッハの協奏曲ニ短調を演奏しているところ)

大食堂は満員で、ハリエットの学衣に覆われた肩は連れのそれに触れ、連れの長い袖が三日月形に、ハリエットの膝に被さっていた。(中略)ハリエット自身、音を多少は頭で読み取り、旋律の縒り合わされた鎖の環を一つずつ、苦労してほぐしていくだけの知識がある。ピーターなら、入り組んだ形の全体像を聴き取ることができるに違いない。どの部分も別個に、しかも同時に。それぞれが独立していながら対等、分離していながら分かちがたく、上に下に中に移動して、知(あたま)と情(こころ)の両方を魅惑していく。
  最後の楽章が終わり、傾聴していた満員の大食堂がくつろいで拍手しだすのを待って、ハリエットは言った。
「ピーター   あれはどういう意味だったの? 和声は人に委せる、自分たちには対位旋律があれば、と前に言ったのは」
「いや、あれは」ピーターはかぶりを振った。「多声音楽のほうが好きだという意味さ。他のことを意味していたと思うんだったら、何のことかもわかったはずだ」
(ドロシー・L・セイヤーズ 「学寮祭の夜」、浅羽莢子訳)


まわりっくどい(失礼)描写が続く場面であるが、それは容赦を願いたい。
なんたっていい年齢をした二人のことである。互いの恋愛観を示し、愛を告白し、求婚に至るまでにはやたらと長い時間が必要だったのである。
めでたし。




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706. 虫と鳥の音楽家たち、その2


源氏物語絵巻「鈴虫」、
(源氏物語絵巻「鈴虫」、平安時代末期)


源氏物語 第38帖、「鈴虫」の巻、
    秋、八月の十五夜の頃、源氏は六条院の女三宮の部屋の前庭を野の風情に造りかえて秋の虫を放す。二人の冷ややかな歌の応酬の後、この夜は、思いがけずおもしろい宴となった。

 十五夜の月がまだ上がらない夕方に、宮が仏間の縁に近い所で念誦(ねんじゅ)をしておいでになると、外では若い尼たち二、三人が花をお供えする用意をしていて、閼伽(あか)の器具を扱う音と水の音とをたてていた。青春の夢とこれとはあまりに離れ過ぎたことと見えて哀れな時に、院がおいでになった。
「むやみに虫が鳴きますね」
 こう言いながら座敷へおはいりになった院は御自身でも微音に阿弥陀(あみだ)の大誦(だいじゅ)をお唱えになるのがほのぼのと尊く外へ洩(も)れた。院のお言葉のように、多くの虫が鳴きたてているのであったが、その時に新しく鳴き出した鈴虫の声がことにはなやかに聞かれた。
「秋鳴く虫には皆それぞれ別なよさがあっても、その中で松虫が最もすぐれているとお言いになって、中宮(ちゅうぐう)が遠くの野原へまで捜しにおやりになってお放ちになりましたが、それだけの効果はないようですよ。なぜと言えば、持って来ても長くは野にいた調子には鳴いていないのですからね。名は松虫だが命の短い虫なのでしょう。人が聞かない奥山とか、遠い野の松原とかいう所では思うぞんぶんに鳴いていて、人の庭ではよく鳴かない意地悪なところのある虫だとも言えますね。鈴虫はそんなことがなくて愛嬌(あいきょう)のある虫だからかわいく思われますよ」
 などと院はお言いになるのを聞いておいでになった宮が、

大かたの秋をば憂(う)しと知りにしを振り捨てがたき鈴虫の声

 と低い声でお言いになった。非常に艶(えん)で若々しくお品がよい。
「何ですって、あなたに恨ませるようなことはなかったはずだ」
 と院はお言いになり、

心もて草の宿りを厭(いと)へどもなほ鈴虫の声ぞふりせぬ

 ともおささやきになった。

(源氏物語 「鈴虫」、与謝野晶子訳;青空文庫)


やがて月が上がってくる。
源氏が琴を爪弾き、宮は聞き入っている。
先ほどの歌の応酬時とは違って、女三宮は源氏の気配りを喜ばしく思うが素直に口に出せない。
そこへ、蛍兵部卿宮や夕霧たちがやって来て、その夜はそのまま管弦と鈴虫の宴となった。
    先にこの夜のことを "おもしろい宴" と書いたが、もちろん はかない宴 でもあったのである。



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705. 虫と鳥の音楽家たち、その1


ルナール「博物誌」、ロートレックによる表紙・挿絵,1899
(ルナール「博物誌」、ロートレックによる挿絵,1899)


ルナールの「博物誌」を開く。
にわとりなどの家禽類から始まって、犬や猫や牛、馬などの家畜類、へびやかえるや昆虫たち、そして魚や鳥や獣たちについて・・・。さまざまな動物たちについての短くて優しくてみごとな文章が並んでいる。

中でも、わたしが好きなのは、最後の方にならぶ野鳥についての文章だ。
特に、歌う鳥たち!
うぐいす、かささぎ、つぐみ、ひばり、せきれい、やましぎ、そしてあとり。

   あとり

 納屋の屋根のはしっこで、あとりが一羽うたっている。規則正しく間をおいて、親ゆずりの節をくり返す。そいつをじっといつまでも見ていると、目がかすんできて、もう、鳥とどっしりした納屋との見分けがつかなくなる。納屋の石だの、干し草だの、大梁だの、屋根がわらだのの命が、そっくりこの鳥のくちばしからとびだしてくる。
 というよりは、納屋そのものがちいさな歌を口笛で吹いているのだ。

(辻昶訳)


わたしの家の近くにも、アトリは飛んでくる。
小さいながらも落ち着いた顔つきの鳥で、見ようによってはなんだか態度がでかい鳥だなぁと感じたりすることもある。
でもさすがにその態度をして、「どっしりした納屋との見分けがつかなくなる」と形容したルナールの文章は大袈裟すぎないか?

   と思ったら、それは全くの誤読なのでありました。
ルナールの名文に惑わされたかな。




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704. 歌う天使たち、その2


平等院、雲中供養菩薩像
(平等院、「雲中供養菩薩像(北16)」1053)


天使たちは歌い、奏で、踊る。
これは古今東西、同じであるらしい。



法隆寺、奏楽天人 (3)  奏楽天人282,403
(左、法隆寺金堂・天蓋、七世紀:右、薬師寺東塔・水煙、八世紀)


ルネサンス期のヨーロッパの画家たちと同じように、日本でもこの主題は多く取り上げられてきた。
日本の「飛天」たちは、天地の連絡役を果たすばかりではなく、天空に浮かびながら楽器を奏で、祈りをささげているのである。この表情の静かで豊かなこと!




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703. 歌う天使たち、その1


1534-36,403,Gaudenzio_Ferrari_Concerto degli Angeli, affresco, 1534-36; Santuario della Madonna dei Miracoli, Saronno
(Gaudenzio_Ferrari,Concerto degli Angeli, 1534-36)


天使たちは歌い、奏で、踊る。
これは古今東西、同じであるらしい。
ルネサンス期のヨーロッパの画家たちも、好んでこの主題を描いた。
ヤン・ファン・エイク、ハンス・メムリンク、メロッツォ・ダ・フォルリ、フィリッポ・リッピ、ミケランジェロ、カラヴァッジオ等々。
綺羅星のように並ぶ作品群のなかで、わたしがいちばん好きなのは、上に画像をあげたガウデンツィオ・フェッラーリの「天使のコンサート」という絵である。これは、「詩篇」の最後の150篇で歌われている場面を描いているのだという。イタリア・サロンノの「奇蹟の聖母マリア聖堂」の円蓋に描かれた作品である。



A Musical Angel1878-80
(Edward Burne-Jones,A Musical Angel,1878-80)

もちろん、近現代の画家たちの作品もある。
エドワード・バーン・ジョーンズやシャガールの天使たちは、とても魅力的である。
しかし、この主題については、やはりいにしえの名手たちには敵わないと、そんな気がするのである。

(続く)



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598. ヴィーナスとヴァルカンとマルス (Today's Soup)


Moïse Kisling Le bouillabaisse(ブイヤベース)1932、村内美術館
(モイズ・キスリング「ブイヤベース」1932、村内美術館)


ブイヤベースの起源は、紀元前600年頃に古代ギリシアのポカイア人が開いたマルセイユの街まで遡る。元来、ギリシアで「カカビア」と呼ばれていたシンプルな魚のシチューのことである。
ミシェル・ド・モンテーニュ(1533-92)によれば、ローマ神話には、ヴィーナスが夫のヴァルカンにこのスープを飲ませ眠らせておいて、恋人マルスとの逢瀬を楽しんだというエピソードが残されているという。本当ならば、なんと罪作りなスープであることか!


Botticelli,Venus and Mars,1483
(Sandro Botticelli, Mars and Venus,1483、National Gallery, London)


このヴィーナスとヴァルカン、マルスについては多くの画家が作品を残している。
古いものから挙げてみると、ボッティチェリ、ティントレット、ヴェロネーゼ、プッサン、ジョルダーノ、ブーシェ等々、どれも愉しませてくれるのである。



giordano,ウルカヌスに捕らえられたマルスとヴィーナス,1670-1675年頃
(Luca Giordano, Mars und Venus von Vulkan gefangen,1670-75、the Vienna Academy of Fine Arts)


ヴィーナスの絵といえば、わたしにとってはなんといってもクラナハである。
彼のヴィーナス(とキューピッド)を描いた作品群は、なにものにも代えがたい宝物だと思う。
しかししかし、残念なことに、そこにはマルスもヴァルカンも登場しないのである。





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