スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

728. ピーター・マシーセン 馬捨ての緯度  (ぼくらの本が歌う時)


マシーセン、On the River Styx and Other Stories  マシーセン、黄泉の河にて


冒頭部の一節を引用するだけで、およそこの作品の内容はわかるだろうと思う。
アメリカからブラジルへ向かう航海のなかの、“船室を共用する二名の客のあいだの愉快な小競り合い” について、作家は、ドライな文体と端正な文章でみごとに綴り、最後に二人が声をそろえて”愛の歌”を歌いあげる大団円に至るまでの道中を、魅力いっぱいに書き上げる。この一篇だけで、骨太で且つ周密なマシーセンという作家の筆力がわかると思うのである。

 われわれの乗った船   クリスマスツリーと小型の機械類を積み込んでニューヨーク港を出発し、アンティル諸島を抜けて南米へ至ったのち、アマゾン河をのぼる予定の英国船籍の貨物船   がレッドフックのB埠頭を離れるか離れないかのうちに、ふたつある船室のひとつを共用する二名の客のあいだで愉快な小競り合いが勃発した。わたしはもう一方の部屋をひとりで使っていた (観光協会の依頼を受けて、貨物船の旅を紹介する冊子を執筆中であった) し、内心、事件を歓迎する気持ちもあったので、部屋割りの変更を申し出るつもりはさらさらなく、また、目前の四十日に及ぶ航海中に、さしたる娯楽の種も期待できない以上、この天敵同士を引き離したいとは   率直なところ   毛頭思わなかった。
 神の話をさせれば上機嫌に口角泡を飛ばすホーラスは、パプテスト教会の宣教師で、南米奥地のジャングルに鬱々と暮らす信徒たちのもとへ帰る旅の途上にあった。一方、気むずかし屋のレバノン商人ハシッドは、全世界の重圧が自分のやわな双肩にかかっていると言わんばかりのあきらめ顔で、しきりに肩をすくめる癖があり、土気色の顔をした運命の女神に引き立てられるように、ブラジル北部、アマゾン河口の町ベレンをめざしている。
(「馬捨ての緯度」、東江一紀訳)


ピーター・マシーセン (1927-2014) は、およそ ”30年遅れで登場してきたヘミングウェイ” のような存在の作家であったと思う。作家にして、探検家であり、漁師であり、ナチュラリストであり、禅僧であり、俳人であった。 (スペイン戦争には間に合わなかったが、) 50年代のパリに登場し、そこで文芸誌を立ち上げ、当時のパリに集まっていた欧米の若手作家とその予備軍たちとの交流の中で、新たな文学の流れを作り出すことに寄与したという。マシーセン自身も小説、ノンフィクションの両方にまたがる形で息の長い創作を行い、幾つもの大作をものした。
長篇が主体の作品群の中で、唯一の短篇集が 『黄泉の河にて』 (原題「On The River Styx」,1989) である。 「馬捨ての緯度」(1959) は、ここに収録されている。



にほんブログ村 本ブログへ



スポンサーサイト

727. エリザベス・ボウエン、父がうたった歌 (ぼくらの本が歌う時)


Elizabeth Bowen1952  Elizabeth Bowen j


エリザベス・ボウエン(1899-1973) の短篇 「父がうたった歌」(1944) を読む。
ボウエンは、長篇、短篇ともすばらしい作品を残している。
得意は、”少女”の物語である。少女についての、妙に入り組んだ残酷で美しい物語が得意である。
この短篇にも、ひとりの若い女性が登場してきて、少女だった時代と彼女の父についてのはなしを語っていく。物語の舞台は、1910年代から30年代にかけてのイギリス、第一次大戦が終わった時期である。
短い、20ページほどの作品だが、いろんな意識やイメージや感情が詰め込まれていて密度が高いのに驚く。でも読むのは簡単である。すぐに魅せられてしまって、あとは唸るだけで良い。

「戦争はもちろんもう終わっていて、数年たっていたかしら。父は英国陸軍を除隊して、よく言うでしょ、しばらく休んで様子を見ていたのね。どのくらいそうしていたのかな、正確にはわからないわ。(中略)
そろそろ聞きたいところよね、父がいつうたうのかって。何度か父はうたいかけていたのよ   薔薇の垣根のバーゴラを金槌で叩いているときとか、何かいいことを思いついたときとか、歪んだフランス窓を押したら一気にぱっと開いたときなんかにね。いつもうたい出すところだったのに、歌にならなかったのね   だって、うたっても人に聞こえない場所が、なかったんだから。壁は薄いし、芝生は狭いし、平屋の周囲は空気が重くて静かだったから、あらゆる音がいやでも母の耳に入ってしまうのよ。父の堂々とした歌い出しがが、帽子をあみだにかぶったかっこよさと一緒になって、何にもまして母にはこたえたのね。(中略)そう、それは母にとっても戦争と恋を思い出させたの。だから父がどっちの曲にしろ、最初の四節目か五節目までうたうと、もう母が大きな声で人を気違いにするつもりって怒鳴ったの。父は歌をやめて『ごめん』と言うけれど、気分が乗っていると、つぎの瞬間には、さっさともう一つの曲を歌い出すものだから、母は実力行使でやめさせるわけ」
(太田良子訳)


この物語に登場する ”歌” は、主人公の女性にとって、記憶のなかでうたわれていたものであり、あらためて出てくると困惑してしまうという類のもの、だろうか。
    そんなことに気を取られたり感傷に浸っていると、おっといけない読み落としてしまっていたかもしれない。この短篇は、同時に、若い男女のまだほんの序盤のところの、恋バナでもあったのだったか。



にほんブログ村 本ブログへ


726. アリステア・マクラウド、完璧なる調和 (ぼくらの本が歌う時)


Alistair MacLeod  Alistair MacLeod2


アリステア・マクラウド (1936-2014) は、生涯で20篇弱の短篇を書いた。そのほとんどは、両親の故郷であり、自身も少年時代を過ごしたカナダのケープ・ブレトン島を舞台にしている。
この島は、スコットランドの高地地方から追われるような形で移住してきた人たちが住む移民の島であり、彼らの生活には、今もスコットランドの文化やケルト人(ゲール族)の伝統が色濃く残っているのだという。

彼はいつもアーチボルドと呼ばれ、たまにゲール語で「ギリアスピック」と呼ばれることもあった。堅苦しい雰囲気がつきまとっているせいか、「アーチ」とか、もっと一般的で親しみのこもった「アーチー」という呼び方をする者はいなかった。見た目もふるまいも「アーチー」という柄じゃない、と世間は言った。そして年がたつにつれて、届けられる手紙の宛名には「アーチボルド」とだけ書かれるようになり、宛先には半径六十キロほどの範囲のさまざまな住所が書かれていた。後年の手紙の多くは、千九六十年代に彼を「発見」したという民俗学者たちからのもので、彼はそういう人たちのためにテープやレコードをつくった。そして、「本物のゲール語民謡の最後の歌い手」と言われるようになった。
(中野恵津子訳)


マクラウドがこの「完璧なる調和」(1984)という短篇で描いているのは、古い民謡の歌い手の老人の物語である。彼はただの歌い手ではなく、” ゲール語民謡最後の”という形容詞がつけられるような存在である。かつてのスコットランド・ゲール的な伝統がそこに住む人たちと共に離散していくような状況の中で、彼は生きてきて、そして老いてきている。    “歌” もまた滅びていかざるをえないのだろうか、と作家は問うてみるのである。



にほんブログ村 本ブログへ




725. ミヒャエル・エンデ モモ  (ぼくらの本が歌う時)


momo.jpg  momo2.jpg


ミヒャエル・エンデの 「モモ」 (1973) を読んでいる。
この印象的な表紙の絵は、(邦訳・岩波少年文庫版も同じ)、エンデ自身によるものである。
作家本人は「モモ」の挿絵をモーリス・センダックに頼みたかったのだが叶わなかった、というエピソードが残っている。「はてしない物語」(1979)がベストセラーになったあとなら、どんな画家でも起用することができたのだろうが。



momo、クヴィエタ・パツォウスカー  Marcel Dzama Momo


実際に、今なら、チェコ語版では、クヴィエタ・パツォウスカーがMomoを描いているし (画像左) 、カナダ版ではマルセル・ザマのMomoがある (画像右) 。 どれを本棚に並べようか、目移りがして仕方がない。


 「ねえ、おしえて、」とうとうモモはききました。「時間て、いったいなんなの?」 (中略)
 モモはじっくり考えてみました。
 「時間はある   それはいずれにしろたしかだ。」思いにしずんでつぶやきました。「でも、さわることはできない。つかまえられもしない。においみたいなものかな? でも時間て、ちっともとまってないで、動いていく。すると、どこからかやってくるにちがいない。風みたいなものかしら? いや、ちがう! そうだ、わかった! 一種の音楽なのよ   いつでもひびいているから、人間がとりたてて聞きもしない音楽。でもあたしは、ときどき聞いていたような気がする。とってもしずかな音楽よ。」
(大島かおり訳)


モモは、物語の中で、よく歌っている。
自分の中でたえず響いているメロディをくちずさんでみたりする。
そうしていると、言葉がひとりでに口をついてでてくるのだという。
とはいえ、言葉もメロディも、日がたつごとに新しく変わり、同じままではないらしい。
時には誰も歌を聴いてくれない日が続いたりする。
だから、こんな音楽を知らないままの方が良かったと思うこともある。
だけど、結局、気がつくと彼女は歌っているのである。

・・・・「モモ」は、決して、失われた音楽を取り戻す少女の物語ではないし、時間に取り憑かれた人間たちの世界を描いたファンタジーでもない。エンデが物語に込めた寓意は、もっと形而下の領域を指し示しているのだという読み方もあるらしい。
しかし、確かなのは、ぼくらが "モモ" という物語を思いうかべるとき、そのはなしの底からはいつも静かなメロディが聞こえてきそうな気がするということである。われらがカシオペアの甲羅の上にも、ようく見ると、いつも音符が映し出されているはずなのである。



にほんブログ村 本ブログへ


724. G・マクドナルド、かるいお姫さま (ぼくらの本が歌う時)


マルク・シャガール『散歩』(1917-18年、ロシア美術館蔵)
(マルク・シャガール、「散歩」,1917-18)


ジョージ・マクドナルド(1824-1905)といえば、「リリス」(1895、幻想小説の先達!)を思い出すのか、それとも岩波少年文庫の「かるいお姫さま」や、「お姫さまとゴブリンの物語」のような児童向けのお話が先に思い浮かんで来るのか。 わたしの場合だと、どちらも同じマクドナルドの作品なの?と、訊いてみたくなるくらい、印象が異なっていた。「リリス」はこころを揺さぶる大長編であるし、後者は心をふわふわと軽やかにする短篇群であるのだし。それはまあ、どちらもこころをくらくらとさせてくれるところは同じだったのであるが。

白鳥のように白くて
美しいひとよ、
目を上げよ、
その目の力で
夜を払えよ。
(氷見直子訳)


ところで、「かるいお姫さま」である。
物語に登場するのは、悪い魔法によって重さを奪われてしまったお姫さまと、完璧な妻を探しに旅に出かけた王子さまである。まあありふれた設定である。
引用したのは、王子が湖で泳ぐお姫さまに呼びかける歌。
この後の物語の展開もたぶん想像のとおりである。
とすれば、そんなあたりまえの物語がなぜこんなにも愉しいのか?ということになる。まったくの極私的な感想であるが、それはシャガールの絵を見ればわかると思うのである。重さを失ってふわふわとした存在になった人間は、あんなにも幸せそうではないか!そもそもこのお姫さまは嘆くことなどなかったのである。



にほんブログ村 本ブログへ


723. ユーイング、アメリアと小人たち (ぼくらの本が歌う時)


ユーイング、Daddy Darwins dovecot、コルデコット、1881
(J・H・ユーイング、「ダーウィンおじさんのハト小屋」,1881、ランドルフ・コールデコットのイラスト)


J・H・ユーイングの本を始めて手にとったのは、コールデコットが描いたこんな表紙の絵に魅せられたからだったか。ユーイングの作品は邦訳が少ないこともあり、あっというまに読みつくしてしまうと、あらためて18~19世紀のイギリスの児童文学の黎明期の作家たちの魅力にため息をつかされてしまう。もちろん、作家と画家が出会うべくして出会ったというしかないような、その奇蹟的な取り合わせについても。


ユーイング、AMELIA AND THE DWARFS ILLUSTRATIONS BY GEORGE CRUIKSHANK.
(ユーイング、「アメリアと小人たち」, 1871、ジョージ・クルックシャンクのイラスト)


ユーイングの「アメリアと小人たち」には、このイラストのような愉しい"歌と踊り"のシーンが登場する。
小人たちがうたっているのはこんな歌である。

"All under the sun belongs to men,
And all under the moon to the fairies.
So, so, so! Ho, ho, ho!
All under the moon to the fairies."

おひさまが照らす昼間は人間のもの
おつきさまが照らす夜は妖精のもの
ソーソーソー、ホーホーホー、
夜は妖精たちのもの


この "So, so, so! Ho, ho, ho! "という小人たちの掛け声がなんだか耳についてしまったようで離れない、可笑しくって仕方がない。そんなコーラスが聞こえてきたら、こわいというより、そりゃあ、おかしくってしかたがないよね。
以上、報告します。



にほんブログ村 本ブログへ








722. キジ・ジョンスン/歌わない人間、歌わない動物たち


キジ・ジョンスン  The Man Who Bridged the Mist


キジ・ジョンスン(1960)の初の邦訳短篇集 『霧に橋を架ける』(2014、東京創元社) を読んでいる。
収録されているのは11篇、   ヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞など、数々の賞に輝くと、帯にうたわれているとおり、   驚くほど面白い作品が揃っている。年間ベストブックであると書くのがいささか早すぎるとすれば、間違いなく今日のベストブックであるとでも書いておこうかと思う。

冒頭の「26モンキーズ、そして時の裂け目」、続く「スパー」、「水の名前」、「噛みつき猫」、「シュレディンガーの娼館」という順に並べられたラインアップの怒涛のような迫力には圧倒されるばかりである。この最初の5篇でダウンを喫しない読者はいないだろうと思う。わたしなど、ここで長い休憩を取りビールを6ガロンほど飲み干してから作品集の後半を読みだしたくらいである。

その後半には、「蜜蜂の川の流れる先で」、「霧に橋を架ける」などの中篇に近いような力作が並んでいる。なるほど、こちらも面白いったらない。しかし、比較すると、前半の掌編に近いような短い物語の方が、わたしの好みである。

訳者によれば、キジ・ジョンスンは現代のSF・ファンタジー小説の分野で、例えばハーラン・エリスンやル・グウィン、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアに通じる存在として位置付けられている作家なのだという。・・・確かにそんな印象は受ける。しかし、もっと確かなことは、この作家は比較対象に挙げられた3人とは大きく世代が違うということである。ケリー・リンク、ブライアン・エヴンソン、テリー・ビッスン、ジャネット・ウィンターソンらと同じ時代を生きているのである。物語を紡ぐ感覚が、あたりまえのことだが、もっと新しくもっと大胆で、もっと奇妙に歪んでいて、登場する人間たちは多くが冷たく乾いていて、だいじなものから乖離している。ミス・コミュニケーションが目立つのである。

だから、キジ・ジョンスンの作品では、主人公の人間はみな喪失感と空虚さに憑かれていて、あまり音楽を聴いたり歌ったりしない。重要なキャストとして登場することが多い動物たちも、言葉を話したり、マジックは披露するが、歌うことはほとんどない。この作品集に出てくる猿、ネコ、ポニー、犬たちは、決して癒やしの存在でも人間の古き良き友でもなくて、彼ら(彼女ら)もまた、ミス・コミュニケーションの対象でしかないからである。

と書いたところで、記事を終わりにすることができないのが辛いところである。なんたって、現在進行中のエントリ・シリーズは『ぼくらの本が歌う時』なのであるから、キジ・ジョンスンの物語にもぜひ歌ってもらわねばならない。

 彼女は船尾に立ち、櫂で身体を支えた。一瞬キットは自分たちが渡っているのは水だと錯覚できそうな気がして、水のはねる音をなかば期待したが、大きな櫂はなんの音もたてなかった。あまりにも静かで、ラサリの息遣い、前方の犬が神経質に息を切らす声、自分自身の速すぎる脈の音が聞こえるほどだった。そのとき、《穏やかな川渡し号》が砂丘の長くなだらかな坂をするすると登りはじめ、砂丘が霧以外の何物かである可能性はなくなった。
 低いため息が聞こえた。まるでかつて密封されていた部屋に空気が入りこんだときを思わせる。遠くまで見渡すことはむずかしかったが、おぼろげに残っている黄昏の光で、すぐ近くの砂丘の表面で霧がうねって、泥の表面に現れてきた泡のようになっているのが見えた。この半球が大きくなり、そこで破裂した。女のひとりが息を呑んだ。なにかの影が転がっていったが、暗すぎて、キットには長さくらいしか見えなかった。
 「あれはなん   」彼はいぶかりながら言った。
 「魚」ラサリがキットに囁いた。「小さいのじゃない。今夜はあいつら、食いついてくる。来るんじゃなかった」
 この頃には夜になっていた。ひとつめのちっぽけな月が現れ、星が続いた。ラサリは優しく櫂で漕ぎながら砂丘のあいだを抜け、顔は空へむけていた。最初キットは彼女が祈っているのだと思ったが、星を見て針路をたしかめているのだった。魚が姿を見せる回数が増えていた。ため息が聞こえるたびに、黒い影がちらりと見える。誰かの歌声が聞こえた。なぜか、はるか後方から運ばれてくる声。
 「漁師たちね」ラサリが言った。

(「霧に橋を架ける」,2011、三角和代訳)


ようやく見つけてきたのが、この一節である。
キジの作品では、めずらしく ”歌声” が聞こえてくるシーンである。
とてつもなく危険な霧 (腐食性の気体からなるこの霧には、怪魚たちが潜んでいるらしい) を渡ろうとする主人公の二人には、とても歌う余裕などない。彼らにとって ”歌声” とは、かならず、”はるか後方から聞こえてくるもの” である。歌い手は、かならず、名前の無い第三者でなければならない。自ら歌い手になることはない。
もちろん ”霧” は、ミス・コミュニケーションのメタファであるので、僕たちにはそれを乗り越えるすべなどないように見える。それが当然なのである。
しかし本当に歌などうたえるすべもないのか? その答えについても、キジ・ジョンスンは書いているので心配なく、たぶん大丈夫。



にほんブログ村 本ブログへ




721. 聞く耳を持つ人々に/ブラックウッド 人間和声 (ぼくらの本が歌う時)


Blackwood Human Chord  人間和声


アルジャーノン・ブラックウッド(1869-1951)の長篇、「人間和声」(1910)を読む。
(邦訳、南條竹則訳、光文社古典新訳文庫)
ブラックウッドといえば、怪奇小説であり短篇の作家であると思い込んでいたが、これはそのどちらでもなく、長篇小説であり、たぶん怪奇小説でもない。
では、なにか? ということになるが、それがなかなか難しい。ぴたりとくる言葉がないのである。
例えば、幻想小説、神秘文学と書いておけば無難なのだろうが、少し違う。
音楽が重要なテーマになっているが、もちろん音楽小説ではない。
思い切って、これはブラックウッド流の青春小説であり、成長小説であると言い切ってしまえるといいのだが、それではこの作家のファンに叱られそうな気がするのは何故だろうか?

 少年の頃、彼は想像裡にさまざまなものを生き生きとつくり上げては、自分の創造物を生きた実在だと信じた。彼はすべての人、すべてのものに名前を    本当の名前を見つけた。彼の心のうちのどこかに広大な遊び場が広がっていて、それに較べれば、父親の土地にある干草畑も芝生もちっぽけなものに思われた。(中略)
 彼の想像力はいくつもの世界を思いつき、生み出した。だが、こうした諸世界にあるいかなるものも、真の、生きた名前を見つけるまでは命を帯びないのだった。名前は生命の息吹きだった。そして彼は遅かれ早かれ、かならずそれを見つけた。(中略)
 もちろん、成長するにつれて、こうした考えの多くは消え失せたが、名前の持つ現実感    真の名前の意味、誤った名前の滑稽さ、不正確な発音の残酷さをまったく感じなくなることはなかった。彼は知っていた。いつか遠い未来のある日、素晴らしい娘が自分の人生にあらわれ、自分の真の名前を音楽のように歌って、唇が子音と母音を生み出すにつれて、彼女の全人格がそれを表わし    そして自分は彼女を愛するだろう。自分の名前は滑稽で憎むべきものではあるけれども、彼女の声に応えて歌うだろう。二人は同じ和音の二つの楽音のように、お互いに必要なものとして、文字通り共に諧調を奏でるだろう・・・・・・
(南條竹則訳、光文社古典新訳文庫))


ともかく、この小説が音楽という主題を取り上げてみごとな小説に仕立てていることは間違いない。
コード、スケール、旋律、音節、倍音、等のそれぞれの言葉の持つ意味が、単なる音楽用語であるという概念を越えて、ぼくらの世界に迫って来るのだから、その書きっぷりに感嘆せざるをえない。さらに、声音と名前の関係について、そして和声と世界の関係について延々と書き連ねていくところなど、そこいらの哲学小説など軽うく吹き飛ばし、オカルト小説などすいと置き去りにし、ひとり、世界を走破するかのようである。  
なるほど、けだしこの作家は、"音"までをも見透す、幻視の人なのであった。



にほんブログ村 本ブログへ


720. 彼はとってもいいやつだから♪  (ぼくらの本が歌う時)


virginia woolf haunted house 1944
(Virginia Woolf, A Haunted House and Other Stories 1944)


ヴァージニア・ウルフ (1882-1941) の短篇 「遺産」(出版=1944)を読む。
小説の主人公は、中年の男ギルバート・クランドン、有力な政治家らしい。
妻が亡くなり、その遺品を整理している場面から物語は始まる。
ウルフは、この作品の中で"かなしみ"について書いている。男の、ではなく、女のかなしみについて。

    ギルバートは、今、妻の遺した日記を手にしているところ。

「ギルバートは」適当な箇所を開けて文面を読み始めた。「本当に男前だった(後略)」
 自分の問いを察してくれているようなくだりだ。もちろん、あなたは女性にはとても魅力ある人よと言ってくれている感じだ。もちろんミス・ミラーもそう思っていたわけだ。ギルバートは読み進めた。
「妻としてどんなに誇らしいことか」
 ギルバートも夫としていつも実に誇らしかった。二人で外食したときなど、何度ギルバートはテーブル越しに妻を見つめながら心につぶやいたことか。この場で誰よりもきれいな女だと。日記を読み進めた。結婚一年目、ギルバートは下院議員の選挙に立候補していた。二人は選挙区を駆け回った。
「ギルバートが席に着くと、すごい拍手が起きた。聴衆はみな立ち上がって歌いだした。『彼はとってもいいやつだから (訳注、誰かをたたえるときによく口ずさまれる歌)』。わたしは圧倒されるばかりだった」
ギルバートも憶えている。妻は演壇で自分のかたわらに坐っていた。妻が自分にちらりと向けた視線や、その瞳に浮かんだ涙は今でもありありと目に浮かぶ。で、それからどうなったかな。ギルバートはページをめくった。
(井伊順彦訳)


「遺産」は、作家の死後に出版された作品である。
執筆の時期は、1920年代とも、40年頃であるともいわれているらしい。
・・・読後の印象としては、晩年の作家の透き通るように冷たい意識が伝わってくるような感じが強い。
妻のかなしみが、"遺された日記を拾い読みする夫の意識を通じてしか伝えられない"、という世界について、ウルフは書いているのだと思う。



にほんブログ村 本ブログへ







719. すべて上手く行くという歌 (ぼくらの本が歌う時)


ケリー・リンク
(ショーン・タン、「パーフィルの魔法使い」のためのイラスト)


ケリー・リンク(1969-) は、あるインタビューで 『私は気を散らされるのが好きだ』 と、語っているそうだ。
ぼくらは彼女の小説を読むとき、その自由自在に広がっていく物語に、やはり気をいっぱいに散らされてしまう。これって、小説の持つ魅力のひとつなのだろうか?なんだか、作家の不思議な手で蹂躪されてしまっているような気分がしないでもない。   ただ、短編集を一冊読もうとしただけなのに、ぼくらはさんざん蹂躪されたあげく、みんなドリーマーに仕立て上げられるというわけである。You may say I'm a dreamer/But I'm not the only oneというのは、こういうことをいうのだろうか。

「見てみなさい」とトルセットが言って、窓辺に歩いていった。三人で下を見ると、エッサをはじめ魔法使いの召使いたちが難民のあいだを動き回っていた。一言も喋らない老いた女二人は衣類や毛布の束を整理していた。痩せた男は誰かの牛を杭につないでいた。子供たちが鶏の群れを追いかけ、バードが急ごしらえの鶏囲いの扉を押さえていた。年下の女の子の一人パーラが、母親に抱かれた赤ん坊に子守唄を歌ってやっていた。荒っぽくもありきれいでもあるその声が、ハルサとオニオンとトルセットが下を見下ろしている塔の窓までのぼって来た。三人とも知っている歌だった。すべて上手く行くという歌だった。
(ケリー・リンク「パーフィルの魔法使い」,2006、柴田元幸訳)


「パーフィルの魔法使い」は、少年と少女の物語である。
粒ぞろいの作品が並ぶ短篇集 『プリティ・モンスターズ』 のなかでも、とびきりの一作だと思う。
邦訳で50頁ほどの長さであるので30分もあれば読みきることができる。
つまり、そんな、あっというまに、ドリーマーになることができるのである。
ドリーマーになっても、すべて上手く行くとはかぎらないかもしれないのは哀しいが。




にほんブログ村 本ブログへ


被災地の学生を応援しよう!
プロフィール

jacksbeans

Author:jacksbeans
ようこそ!
記事のカテゴリ区分は、
①自転車、②図書室、③青、④メキシコ、⑤フルーツ、⑥階段、⑦画家、⑧スープ、⑨音楽、⑩綠、です



にほんブログ村 本ブログへ

ブログ村ランキング参加中、
クリックしていただけると幸いです。

カテゴリ
月別アーカイブ
04  12  09  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04 
検索フォーム
最新コメント
最新記事
PVアクセスランキング/海外文学
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。