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722. キジ・ジョンスン/歌わない人間、歌わない動物たち


キジ・ジョンスン  The Man Who Bridged the Mist


キジ・ジョンスン(1960)の初の邦訳短篇集 『霧に橋を架ける』(2014、東京創元社) を読んでいる。
収録されているのは11篇、   ヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞など、数々の賞に輝くと、帯にうたわれているとおり、   驚くほど面白い作品が揃っている。年間ベストブックであると書くのがいささか早すぎるとすれば、間違いなく今日のベストブックであるとでも書いておこうかと思う。

冒頭の「26モンキーズ、そして時の裂け目」、続く「スパー」、「水の名前」、「噛みつき猫」、「シュレディンガーの娼館」という順に並べられたラインアップの怒涛のような迫力には圧倒されるばかりである。この最初の5篇でダウンを喫しない読者はいないだろうと思う。わたしなど、ここで長い休憩を取りビールを6ガロンほど飲み干してから作品集の後半を読みだしたくらいである。

その後半には、「蜜蜂の川の流れる先で」、「霧に橋を架ける」などの中篇に近いような力作が並んでいる。なるほど、こちらも面白いったらない。しかし、比較すると、前半の掌編に近いような短い物語の方が、わたしの好みである。

訳者によれば、キジ・ジョンスンは現代のSF・ファンタジー小説の分野で、例えばハーラン・エリスンやル・グウィン、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアに通じる存在として位置付けられている作家なのだという。・・・確かにそんな印象は受ける。しかし、もっと確かなことは、この作家は比較対象に挙げられた3人とは大きく世代が違うということである。ケリー・リンク、ブライアン・エヴンソン、テリー・ビッスン、ジャネット・ウィンターソンらと同じ時代を生きているのである。物語を紡ぐ感覚が、あたりまえのことだが、もっと新しくもっと大胆で、もっと奇妙に歪んでいて、登場する人間たちは多くが冷たく乾いていて、だいじなものから乖離している。ミス・コミュニケーションが目立つのである。

だから、キジ・ジョンスンの作品では、主人公の人間はみな喪失感と空虚さに憑かれていて、あまり音楽を聴いたり歌ったりしない。重要なキャストとして登場することが多い動物たちも、言葉を話したり、マジックは披露するが、歌うことはほとんどない。この作品集に出てくる猿、ネコ、ポニー、犬たちは、決して癒やしの存在でも人間の古き良き友でもなくて、彼ら(彼女ら)もまた、ミス・コミュニケーションの対象でしかないからである。

と書いたところで、記事を終わりにすることができないのが辛いところである。なんたって、現在進行中のエントリ・シリーズは『ぼくらの本が歌う時』なのであるから、キジ・ジョンスンの物語にもぜひ歌ってもらわねばならない。

 彼女は船尾に立ち、櫂で身体を支えた。一瞬キットは自分たちが渡っているのは水だと錯覚できそうな気がして、水のはねる音をなかば期待したが、大きな櫂はなんの音もたてなかった。あまりにも静かで、ラサリの息遣い、前方の犬が神経質に息を切らす声、自分自身の速すぎる脈の音が聞こえるほどだった。そのとき、《穏やかな川渡し号》が砂丘の長くなだらかな坂をするすると登りはじめ、砂丘が霧以外の何物かである可能性はなくなった。
 低いため息が聞こえた。まるでかつて密封されていた部屋に空気が入りこんだときを思わせる。遠くまで見渡すことはむずかしかったが、おぼろげに残っている黄昏の光で、すぐ近くの砂丘の表面で霧がうねって、泥の表面に現れてきた泡のようになっているのが見えた。この半球が大きくなり、そこで破裂した。女のひとりが息を呑んだ。なにかの影が転がっていったが、暗すぎて、キットには長さくらいしか見えなかった。
 「あれはなん   」彼はいぶかりながら言った。
 「魚」ラサリがキットに囁いた。「小さいのじゃない。今夜はあいつら、食いついてくる。来るんじゃなかった」
 この頃には夜になっていた。ひとつめのちっぽけな月が現れ、星が続いた。ラサリは優しく櫂で漕ぎながら砂丘のあいだを抜け、顔は空へむけていた。最初キットは彼女が祈っているのだと思ったが、星を見て針路をたしかめているのだった。魚が姿を見せる回数が増えていた。ため息が聞こえるたびに、黒い影がちらりと見える。誰かの歌声が聞こえた。なぜか、はるか後方から運ばれてくる声。
 「漁師たちね」ラサリが言った。

(「霧に橋を架ける」,2011、三角和代訳)


ようやく見つけてきたのが、この一節である。
キジの作品では、めずらしく ”歌声” が聞こえてくるシーンである。
とてつもなく危険な霧 (腐食性の気体からなるこの霧には、怪魚たちが潜んでいるらしい) を渡ろうとする主人公の二人には、とても歌う余裕などない。彼らにとって ”歌声” とは、かならず、”はるか後方から聞こえてくるもの” である。歌い手は、かならず、名前の無い第三者でなければならない。自ら歌い手になることはない。
もちろん ”霧” は、ミス・コミュニケーションのメタファであるので、僕たちにはそれを乗り越えるすべなどないように見える。それが当然なのである。
しかし本当に歌などうたえるすべもないのか? その答えについても、キジ・ジョンスンは書いているので心配なく、たぶん大丈夫。



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⇒comment

Secret

No title

ああー
ものすごく面白そうですね。
って思ったら、文庫じゃない。
でも
近所の図書館においてあるようなので、
その内読もうリストに入れておきます。
ありがとうございます。

おはようございます

Sima さん

おはようございます


いつも、コメントをありがとうございます。

「この本」、ともかく楽しませてもらいました。
機会があれば、ぜひ!




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