39.石川淳 明月珠

明治・大正~昭和の作家たちは、自転車練習についての散文を幾つも残している。漱石も、朔太郎のも、自転車日記はどれも面白い。しかし、小説としてならば、なんといっても石川淳のこの短編が一番だと思うのだがどうだろうか。
「明月珠」(1946)、物語の舞台は空襲下の東京、月の夜の自転車練習、少女に教えを乞う。


その晩、わたしは裏の空地に出て、きよう一日のほこりにまみれた自転車の掃除をして、磨きをかけた。まだ宵のうちなのに、あたりはいつもの晩よりもなおひっそりしている。家家はとくに内を暗くして、堅く閉ざしているけしきで、自転車屋の少女も出て来そうもない。焼けなかったこのあたりの町にも、猛火のほとぼりがまだ残っているようであった。しかし今夜は月の出がはやく、空地は明るく冴えわたって、狂った風は吹いて来ない。陽気もすこしあたたかになった。常ならば、そろそろ花の咲くまでの日数がかぞえ出されるころだろう。わたしはゆっくり自転車を磨きながら、いい気なもので、ひそかに寄自転車恋と題するへたな狂歌を作りかけた。


冷めた眼で戦時下の街を見つめながら、一方で、月と雪の夜、自転車屋の少女、狂歌などの話が加わって、身の回りの情景を描いた随筆か私小説のようなものとして始まった筈が、いつのまにか石川風の幻想譚のようなものとして美しくまとめられていく。街でふと見かけた老作家の姿とその住居(荷風がモデルであるそうだ)のエピソードが織り交ぜられるところにもこころが揺さぶられた。巧みである。冷めた視点が怖くもある。

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