820. アンリ・トロワイヤ 石、紙、鋏 (画家小説百選)

020.jpg


「石、紙、鋏」(1972)は、トロワイヤ、中期の作品。
この中篇には、二人の男と一人の女が登場する。三人が奇妙な関係を形づくりながら物語が展開されていく。彼らは石、紙と鋏のような三すくみの関係でもあり、いつ均衡が崩れてしまってもおかしくないような脆さをあらかじめ内包した関係でもある。
こころやさしさの極致に立つような画家の男が、いかに欲望と打算のままに生きるスノッブたち(Mesdames et Messieurs)と暮らしていくのか、蹂躙されていくのか。・・・そんなことを思ってしまう物語でもある。

・・・スケッチブックを取ってくる。コンテが白い紙の上を走り、人の顔に似た花のようなものが無秩序に現れる。それから、バオバブの樹が立ち上がる。その幹は、たくさんの捩れた肉体の絡み合いだ。その枝は、処刑された人々の手足だ。一枚一枚の葉は、叫喚だ。この植物地獄の中をコンテはさまよい歩き、アンドレはふと思う。自分はどうしてアブストラクト芸術にさほど牽かれないのか。実際、そのエコールの何人かの画家を尊敬はしていても、その人たちの世界像に追随することは、どうしてもできないのだ。アンドレにしてみれば、絵を描くとは、自分の夢を紙やカンバスの上に留めようと試みることに他ならない。その夢はつねに現実世界と縁続きの形態を保っている。いかほど変形され、歪められていようとも、いわば身元確認の可能な画像というものは、アンドレの与り知らぬ夢幻世界の法則にのみ従う。もしも夢の中で、曲がりくねった線、色とりどりの点、縞模様、正方形、正六面体などを見たとしたら、アンドレはためらうことなく、それらをそのまま、カンバスに描き出すだろう。だが、実際は違うのだ。まどろみに落ちる寸前の半覚醒状態の中で、アンドレが見るものは、草であり、馬であり、人の顔であり、人間バオバブであり・・・・・だとすれば、それ以外のものを何のために描かなければならないのか。
(小笠原豊樹訳)


もちろんこの物語の結末は、”案の定”ってやつである。
でも、悲しいはずのアンドレの姿が、それほど打ちひしがれた様子には見えないのはなぜだろうか。トロワイヤがなぜそんなふうに描いたのか、そのことを想像していたら、フッと鼻から息が抜けた。いや決して笑ったのではなくて、きっとアンドレなら大丈夫だろうと。なんとか幸せに生きていくだろうと。そんな気がしたからである。


Henri Troyat La Pierre, la Feuille et les Ciseaux




にほんブログ村 本ブログ 海外文学へ




関連記事
スポンサーサイト

⇒comment

Secret

被災地の学生を応援しよう!
プロフィール

jacksbeans

Author:jacksbeans
ようこそ!
記事のカテゴリ区分は、
①自転車、②図書室、③青、④メキシコ、⑤フルーツ、⑥階段、⑦画家、⑧スープ、⑨音楽、⑩綠、です



にほんブログ村 本ブログへ

ブログ村ランキング参加中、
クリックしていただけると幸いです。

カテゴリ
月別アーカイブ
04  12  09  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04 
検索フォーム
最新コメント
最新記事
PVアクセスランキング/海外文学
リンク