753. 歌う声で歌の主がわかってたまるか (ぼくらの本が歌う時)


笑いの新大陸―アメリカ・ユーモア文学傑作選


「歌う声で歌の主がわかってたまるか」(1957)は、フィリップロスの短篇。
短い作品だが、高校生の少年を描いたとびきりの青春小説だと思う。

翌日体育の授業のあとでアルビーが、あの<職業>の先公のやつ、ただじゃおかんぞ、と宣言してもぼくは驚かなかった。(中略)「十時十五分がすぎてラッソーが黒板のほうを向いたら、すぐさまかがんで靴のひもを結ぶんだ」(中略)
十五分になった。ラッソーがうしろを向いてアルミニウム関連の労働者の賃金水準を黒板に書きつける。ぼくはかがみこんで靴のひもを結ぶ(中略)ラッソーの脚がこちらを向きなおるのが見えた。やつの眼にうつった光景ときたら    なにしろ、さっきまで二十五人の顔があったところになにもなくなっているのだから。あるのは生徒の机だけ。「おお、そうか」というラッソーの声がした。(中略)
 ラッソーはきちんと席につくようにいったが、ぼくらはかがんだ姿勢をくずさず、アルビーがいいというまでは席につかなかった。そして、やつの指示にしたがってこう歌った    

   りんごの樹の下にすわっちゃいけない
   すわるのならぼくとだけ
   ほかのやつとはすわらないで
   ほかのやつとはすわらないで
   いけないよ、りんごの樹の下にすわっては・・・・・・

それからぼくらは歌に合わせて手拍子をうった。そのやかましいことといったら!
(佐伯泰樹訳)


邦訳は、白水社版のアンソロジー『笑いの新大陸―アメリカ・ユーモア文学傑作選』に所収。
とここまで書いてあらためて気がついたのは、これは"ユーモア"文学に分類されるのだなぁ、ということ。
なるほど、文章の調子はユーモラスでありコミカルでもあるが、その向こうにはたしかな皮肉や晦渋の感覚が透けている。つまり、ユーモア文学というのは、元来そういうものなのだなあ、とあらためて気がつかされたのでありました。



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752. ナイチンゲールとばらの花 (ぼくらの本が歌う時)


Happy_prince.jpg
("The Happy Prince" ,Illustration for the first edition by Walter Crane)


「ナイチンゲールとばらの花」(1888)、オスカー・ワイルドが書いた童話のひとつである。
「幸福の王子」と同じく、物語には、ワイルドらしい愛とかなしみと美しさにみちており、同時に絶望と悲惨と皮肉にあふれている。童話と銘されているが、いったい誰がこの作品を子どもに読んでやろうと思うだろうか?

「赤いばらがほしければ、月明かりのなかで音楽からそれを作りだして、あんた自身の胸の血でもって染めなければいけない。棘に胸を押しつけてわたしに歌ってくれなければいけない。夜もすがら歌ってくれなければいけないし、棘があんたの心臓を突きささなければならず、あんたの生き血がわたしの葉脈のなかへ流れこんで、わたしのものにならねばならないのだ」
(西村孝次訳)


引用部は、ばらの木がナイチンゲールに話しかける場面。
この後、当然のようにナイチンゲールはかなしみにみちた歌をうたい、そして殉死することになるのである。




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751. エルフたち (ぼくらの本が歌う時)


エルフ2
(トニー・ディテルリッジの絵「森のエルフ」、『アーサー・スパイダーウィックの妖精図鑑』より)


『アーサー・スパイダーウィックの妖精図鑑』 (2005、トニー・ディテルリッジ+ホリー・ブラック)を 読む。
(邦訳は、文溪堂、2008年)
絵をみているだけでも楽しいが、もちろん "歌" も登場する。
この本によれば、エルフはなによりも歌い踊ることが大好きな妖精だというのである。

 だれもいないはずの森や丘のくぼ地から音楽がきこえてきたら、エルフのすんでいる場所だと思ってよい。人間界のすぐれた楽曲の多くはエルフの音楽をもとにしていると考えられるが、エルフの音楽をききつづけると頭がおかしくなることもある。
 森を歩くときには、サンザシの木に囲まれている丘や、川が近くにある丘には気をつけたほうがよい。そのような丘には、くぼ地があるかもしれない。そして、そのくぼ地は、エルフのすみかである可能性が高いからだ。
(飯野真由美訳)


この図鑑を見ていると、妖精たちはみどり色の服を身に着けていることが多いことに気づく。
とすれば、"緑色研究"の記事だって書けるわけだ!
(つづく)



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750. マーク・ホダー バネ足ジャックと時空の罠 (ぼくらの本が歌う時)


マーク・ホダー2  マーク・ホダー


マーク・ホダーの「バネ足ジャックと時空の罠」(2010)、デビュー作にして、フィリップ・K・ディック賞に輝く大作。その看板にふさわしい傑作だと思う。現時点で(まだ3月初だが)、本年度のベストブックの最右翼だと言っても過言ではない^^。

 ダーウィンはしばらく黙りこんでいたが、やがて口を開いた。「われわれは興味をもったぞ。考察せよ。われわれの目の前にいるのは、ひどく非科学的な性向の男のようだ。進化上の奇妙な例外、とは考えられないだろうか。詩人がなんの役に立つというのか?単に身勝手な存在の例証に過ぎないのではないか?飾り物だ、いってみれば。そうかもしれぬ、だが、ある種の動物における装飾的性質について考えてみよ。ほれ、たとえば、熱帯の鳥を。ああした鳥の体色や模様は、目的をもってはいないだろうか?つがいとなる異性を惹きつけるため、または捕食者を混乱させるために?目の前のこの生き物は驚くべき髪の色をしているが、発育はいちじるしく遅れている。彼の職業は肉体的能力の不足をおぎなうために発達したと仮定してみてはどうだろうか?肉体的なレヴェルでは異性を惹きつける能力を欠いているために、彼はヒバリと同じように、”歌”の技術を発達させたということはありえないだろうか?ヒバリは色のさえない小柄な鳥だが、鳴き声はとても派手だ」
(金子司訳、東京創元社)


引用するのは、王の密偵である主人公バートンの盟友であり詩人でもあるスウィンバーンが、追っていた怪人たちに捕えられ尋問を受けているシーン。    小柄で風采のあがらない詩人を指して、”ヒバリと同様、肉体的なハンデをカバーするために、歌の技術を発達させたのではないか”と喝破する場面である。呵呵大笑してしまったのは言うまでもない。
それにしても続編が待ち遠しいこと。




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748. 王様の耳はロバの耳 (ぼくらの本が歌う時)

Demi,King Midas
(Demi 「King Midas」,2002)


「王様の耳はロバの耳」は、もとはギリシア神話のミダス王のエピソードである。
それが、さまざまな民話や童話から劇団四季のミュージカルまで形を変えながら現在まで語りつづけられてきた。   ところでこの物語、いつのまにか、秘密はどうやっても隠せないものとか、ほんとうのことを言う勇気から幸せがはじまるとか、人に対する寛容さを説くとかいった教訓の部分だけが強調されるようになっているが、そもそもはこの話、もっと大らかな"音楽"をめぐる物語なのである。

おやすみなさい レモンのような月が出た
鳩の巣 リスの巣 森の夢
本当のことは眠っている

(寺山修司/劇団四季 『王様の耳はロバの耳』から「おやすみ」の歌)


だから「本当のことは眠っている」なんて美しい寺山のレトリックに惑わされてはいけないのである。
岩波文庫の『オウィディウス 変身物語』(中村善也訳)を読むと、本当の物語は、こんなふうに始まる。
   あるとき、ミダス王は妖精や動物たちといっしょに、田園の神パンの吹く葦笛の音をきいて楽しんでいた。パンも浮かれて自分の葦笛は、太陽神アポロンの竪琴よりもずっと美しい音楽を奏でられると、口にだしてしまう。すると、これがアポロンの耳に届いてしまい、どちらが美しいか競ってみようということになる。勝負はもちろんアポロンの圧勝ということになるのだが、ミダス王だけは盟友パンの肩を持ちつづけ、とうとうアポロンの怒りをかってしまう。その結果、ロバの耳にされてしまうのである。・・・ああ神々はいつも愛おしい。




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747. ユーディット・ヘルマン 夏の家、その後 (ぼくらの本が歌う時)

ユーディット・ヘルマン2  ユーディット・ヘルマン


ユーディット・ヘルマン (1970-) の短篇 「夏の家、その後」 (1998) 、
邦訳は同名の作品集(河出書房新社)に所収。
ヘルマンは、最近のドイツ文学では珍しい短篇の名手なんだそうだ。
なるほど第一作品集にもかかわらず、ていねいに書き上げられた小説が美しく並んでいる。

その後、わたしたちはほとんどいつもタクシーで走り回った。シュタインはルートごとに違う音楽を用意していた。州道にはウェーンを、街の中心部にはデビッド・ボウイを、大通りにはバッハを。トランスAMは高速道路でだけかけた。わたしたちはほとんどいつも高速道路を走った。初雪が降ったとき、シュタインはサービスエリアごとに車から降り、雪の積もった畑地に走り出て、ゆっくりと集中して太極拳の動きをやった。わたしはしまいに笑いながら怒り出し、戻ってきなさいよ、先に行こうよ、寒いんだから、と叫んだ。
(松永美穂訳)


そう、こういうやつがいるんだよね。この小説に登場するシュタインという人物は、たぶん誰からも"しまいに笑いながら怒り出されてしまう"、そんな男だと思う。そんな男とつきあっている"わたし"の一人称で語られる物語は、当然ながら、笑いと悲しみにあふれていて、静かな口調で淡々と綴られている話であるにもかかわらず、おしまいにはやはりずうんとこころを揺さぶられてしまう。    もちろん、二つ目の作品集「幽霊コレクター」も読んでみたいなと思わせるだけの魅力に捕まってしまったのでありました。



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746. 女子学生 (ぼくらの本が歌う時)


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女子学生、といっても太宰の小説ではない。伊東深水の絵でもない。
マンディアルグの短篇である。
絢爛な言葉のあいだにともすると埋もれてしまいそうになる物語が、ある瞬間にぬっと立ち上がってくるのを見ることができる、そんな快感を味わえる小説である。

マリー・モールが私にあかしたところでは、その部屋の中で目にする諸情景は一人の男との出遭いといういつも変わらぬ主題でつらぬかれており、そしてそれらの出遭いはひとつ残らず実際に彼女の生活の中で、同じ場所において、まさしく同じ言葉のやりとりで、何日かあるいは何週間か後に再現するというのである。本屋でのわれわれの鉢合わせについてもそんなぐあいだった。(中略)
ときどき打ち明け話のあとで彼女が口ずさんだ短い歌のメロディー、咽喉にかかった言葉のひびきを、いまも折にふれ私は想い出す。それは家馬車の群れにかこまれた焚き火を、灰の下にうずめて焼かれたはりねずみを、長い木綿のスカートを、縮かんだ蝙蝠よりもまだ黒い耳たぶの下に垂れさがった大きな環を、私の眼前にちらつかせる。
彼女が訳してくれたところではそれはこんなふうな歌だった。

捨て児はみんな持っている
咽喉の奥に
陽気な笑いの小石の下に
青いせせらぎの叫びを
彼らの母を知っている
狂った白鳥の叫びを。

(マンディアルグ「女子学生」,1945 、生田耕作訳)


邦訳は、白水社版のマンディアルグ短篇集『狼の太陽』に所収。
粒ぞろいの作品がならぶこの短篇集のなかでも、実は、「女子学生」の後につづく最後の二篇   「断崖のオペラ」と「生首」 が圧倒的に面白いのである。
”歌”というテーマがなければ、わたしだってそちらを選んだ筈だ、というのは言い訳のようなものであるが。
   しかし、考えてみれば、「断崖のオペラ」にも、海豹と人魚が歌をかわす印象的な場面があったのである。改めて記事にしようと思う。



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745. 海野十三 十八時の音楽浴 (ぼくらの本が歌う時)


海野十三


海野はミステリもSFも書いた。長篇も短篇もお手の物である。
名作の誉れ高い「十八時の音楽浴」 (1937) は、SFの中篇である。
ここで引用する冒頭部の五行を読むだけでもこころは躍るだろう。
おまけにこの後、美少女アンドロイドまで登場するときては!

太陽の下では、地球が黄昏れていた。
その黄昏れゆく地帯の直下にある彼の国では、ちょうど十八時のタイム・シグナルがおごそかに百万人の住民の心臓をゆすぶりはじめた。
「ほう、十八時だ」
「十八時の音楽浴だ」
「さあ誰も皆、遅れないように早く座席についた!」


海野には珍しい(?)、力作である。
SFとしてのアイデアも展開もしっかりとしていて、読み応えがある。
ハリウッドで映画化されてもおかしくないような大スペクタル譚である。
しかし、あまり笑える部分がないことだけはマイナスである。
その点だけは、なによりも海野の笑劇を好むわたしなどには、すこし物足りないのである。




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744. ウィリアム・トレヴァー ピアノ調律師の妻たち (ぼくらの本が歌う時)


William Trevor,After Rain  William Trevor,むずかしい愛


トレヴァーの「ピアノ調律師の妻たち」(1996)、
この短篇に登場するのは、盲目のピアノ調律師の男と、彼の妻たちである。妻が複数になっているのは、再婚したからである。   特別に複雑な設定ではない。20頁ほどの小品でもある。しかし、だからといって、かるうく読みきれないのがトレヴァーのトレヴァーたる所以だということになるのだと思う。

バイオレットと結婚したとき、ピアノ調律師は若かった。ベルと結婚したとき、彼はすでに老いていた。
話はもう少し込み入っていた。というのは、ピアノ調律師はバイオレットを妻にするにあたり、ベルを振っていたからだ。
(畦柳和代訳)


引用したのは、この小説の冒頭部である。
この二行を読んだだけで、この話の展開がわかるだろうか?いやなにも複雑なストーリーではないのだ。しかもトレヴァーの作品であるという大きなヒントもある。これだけを指標に物語の行方を想像してみるのは、とても愉しいだろう。

愉しいだろうと思うのは、きっと予想が裏切られるからである。
ストーリーは読むことができても、トレヴァーが描いた複雑な心理戦のような作品の進行を想像するのは難しいだろう。   作中、ピアノの音も、歌声もほとんど聞こえてはこない。作家は、延々と男と女のこころの動きについて綴っていくだけである。なのに愉しい。それは巧みの業としかいいようのないものなのかもしれない。




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743. ぼくたちにはミンガスが必要だった


ぼくたちにはミンガスが必要なんだ  マイルスとコルトレーンの日々



ずいぶんあったはずの植草甚一さんの本も、今は、ほとんど処分をしてしまって手許にはない。しかし、持っていた本のタイトルは今でも諳んじていてすらすらと挙げることができる。それだけ何度も読み込んでいたということでもあるし本のタイトルが間違えようもないくらい特徴があったからでもある。いちばん好きなタイトルは、「ぼくたちにはミンガスが必要なんだ」(晶文社、1976)。或いは、「マイルスとコルトレーンの日々」(同、1977)。

晶文社の音楽本の中でも植草さんが書いたものは、今、読み返してみるとどれも読みやすいしなんといっても60年代から70年代にかけてのモダンジャズの全盛期の雰囲気やプレーヤーの息吹のようなものがいきいきと描かれていてたのしい。
(例えばミンガスのBEST3が、直立猿人と道化師とブルース&ルーツだと書いてある)

ところがおなじ植草さんのミステリや探偵小説についての本は、どれも新人や前衛やニューウェーブについて取り上げている部分が多くて、改めて読んでみてもなにやら異世界のはなしを見るようでとまどってしまう。
(例えばミステリのBEST3は、ロイ・フラーのセカンド・カーテン、CHB・キッチンのデス・オブ・マイ・アント、マルカム・マッガリッジのアフェア・オブ・ラブだと書いてある)

でもそうか、当時もこんな感じでとまどいながら読んだのだったかなぁと懐かしかったりする。
ただ言えるのはどの本もとてもとてもPOPだったということ。
当時のぼくらには、ミンガスはもちろん、植草さんの本が必要だったのだと思う。



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